日本財団 図書館


第1部 発言内容
1.報告要約 (Summary)
 
「メディア・リテラシーと市民社会――IT革命に欠けている視点」
 
 情報社会が加速するなか、メディアの情報と主体的に付き合うためのメディア・リテラシーが世界的に注目を集めている。各国の実践を具体的に紹介する。
 
“Media Literacy and Civil Society--A View Missing in IT Revolution Dialogue”
 
Amidst the accelerating development of a global information society, widespread attention is being paid to the fostering of media literacy in an effort to more subjectively deal with the role of media-generated information in forming knowledge, value systems, and ideologies. An introduction is given of the media literacy initiatives being pursued in each country.
 
司会
  これから第33回アフタヌーンセミナーを始めさせていただきたいと思います。本日はお寒い中お越しいただきましてまことにありがとうございました。きょうは、現在アメリカにお住まいのジャーナリスト菅谷明子さんをお迎えいたしまして、「メディア・リテラシーと市民社会――IT革命に欠けている視点」ということでお話をいただくことになっております。
 皆さんもお目になさったことがあるかもしれませんが、岩波新書から「メディア・リテラシー」という本を最近出されまして、非常にお忙しいということを伺っております。今回も3週間の日本滞在ということなのですが、その間35ヵ所でお話をされているということなので、多忙をきわめていらっしゃるそうです。きょうはビデオ等もご用意して、いろいろとディスカッションをしていただきたいというふうに思っておりますので、よろしくお願いいたします。
 それでは、菅谷さんお願いいたします。
 
2.講師報告
菅谷
 皆さん初めまして。菅谷と申します。こんにちは。
 きょうは「メディア・リテラシーと市民社会」ということでお話をさせていただきたいと思います。副題としてITとありますが、日本に帰ってきて電車に乗っていると、ITという文字を一日に何回見ているのかなというくらいIT革命という言葉が氾濫しているように思うのですが、実はそこに欠けている視点もあるのではないかというふうに思います。
 それは、今例えば情報教育とか、ビジネスマンの方ですとコンピューターを使ったコンピューターリテラシーを身につけようみたいな、いかに仕事を効率化させるかとか、あるいは産業政策としての情報教育みたいな部分はあると思うのです。
 そのITというのがわれわれのメディア社会にとってどんなものなのか、あるいはITを通して流れてくる情報というものはどういうものなのか、それをわれわれはどのように見ていけばいいのかというような視点というのは、実はあまり出てきていないのかなというふうに思うのです。
 これはまた後で説明させていただきますが、私は「メディア・リテラシー」ということについて過去5年ほど取材をしてきました。それが今のIT時代と言われる日本の状況の中に新しい視点を提供してくれるのではないかなと思いまして、きょうはそういった角度からメディア・リテラシーについてお話をしていきたいというふうに思います。
 まず自己紹介を兼ねまして、私がなぜメディア・リテラシーに興味を持つようになったかということをお話ししたいと思います。
 私は現在フリーランスのジャーナリストでして、あと、今年の4月にスタートした東京大学大学院の情報学環という新しい大学院で、メディア・リテラシーを日本で展開していくための共同研究も行なっております。
 以前はアメリカのニューズウィークというニュース雑誌の日本版に勤めておりました。そのとき、その編集部でたたき込まれたのは、ニューズウイークはアメリカの媒体であるから、日本で起きていることもアメリカ的な視点、あるいは外から見た視点で日本をとらえていくようにということでした。
 そうすると、日本でも産経新聞と朝日新聞と日経新聞はもちろんそれぞれ論調が違うかもしれないのですが、アメリカと日本となるとさらに幅のようなものが出てくるのです。例えば日米の貿易摩擦や日米の外交みたいなもの、起こっている事柄自体は同じですが、それが記事になって出てきたとき、日本とアメリカのメディアを比べるとかなり違っているものになっている。
 ニュースというものが事実を伝えるものであるとすれば、なぜその事実の見え方が違うのかということに非常にこだわりまして、メディアが映すリアリティーというのは一体どんなものなのかということを考えるようになっていたのです。
 その後、ニューヨークにあるコロンビア大学の大学院に留学しまして、そこで受けた授業ですとか出会った出来事が、今研究しているメディア・リテラシーにつながっていきました。
 私が今メディアを考える上で役に立ったのではないかと思うのが、大学院で最初にとった授業で、テレビとか、それから新聞、雑誌の報道の内容を分析するものです。さまざまなトピックを扱うのですが、同じトピックを例えば10の各国の媒体がどのようにニュースとして報道しているかということを比較していくのです。
 そこでおもしろかったのは、アメリカの中国に対する最恵国待遇という、貿易の交渉についての問題を比較したものです。例えば、アメリカ国内でもリベラルな媒体ですと人権擁護の視点から中国との関係をとらえていきますから、中国との貿易には反対する論調です。それから、シアトルはボーイングという飛行機会社の拠点でありますが、そこの地元の新聞というのは貿易を推進するような論調です。
 あと、例えば香港とか中国とか日本とかイギリスとかいろんなものを比べていくと、同じ出来事を扱っていても、そこでずれが出てくるということがわかります。
 それを、どんな情報源を使っているのか、どんな視点を切り口にしているのか、あるいはその媒体の持つイデオロギー的なものはどんなものなのか、あるいは読者層はどうなっているのかというように、体系的にリサーチしていくと、ニュースというのは事実を切り取って鏡のように反射させたものではなくて、さまざまな取捨選択、あるいは編集といったようなプロセスを経て出来上がっているものだという当たり前のことに気がつきます。
 コロンビアのジャーナリズムスクールでは、実際に自分が企画した雑誌をつくるという授業もありました。リーダーズ・ダイジェストという雑誌の編集長が講師としてやってきて、非常に実践的な授業を行うのです。
 まず最初に、雑誌というのは誌面の広告スペースを売るものですから、特定の読者層にターゲットを絞ります。それから、コンテンツを決めていきましょうということで雑誌づくりを始めていくのです。私は雑誌の仕事をしていましたが、アカデミックと実践的な面から雑誌を考えていくと、非常に今までと違った雑誌というもののメディアとしての特性を見ることができました。
 あと、テレビのニュース番組に関する勉強もしました。ABCテレビというネットワークのプロデューサーが2人担当していました。
 まず、夕方と夜のニュースを構成していきましょうということで、100くらいのニュースのリストを渡されました。その100のニュースにはそれぞれ予算がついています。放送する時間は私たちが決めてもいいのですが、ターゲットを考える。夕方のニュースは比較的主婦の方ですとか高齢者、子供が多い、あるいは夜のニュースですとビジネスマンみたいな人が多いですね。
 その中でどういうニュースを出していくのかということを考える。しかも、最後まで見ていただかなくてはいけないので、順番は、最初はおいしいものを出して少し保留にしてまた次のものを出していくみたいに、非常に計算をしていかなくてはならないのです。ニュースというのはさまざまな要素から成り立っているということです。
 授業という非常に限られた中で体験していくうちに、私がかねてから思っていた、ニュースあるいはメディアが映すリアリティーというものは何かということがだんだんクリアになってきました。そうするうちに、これは一般的に知られていることなのか、そうでなければその重要性を伝えていく必要があるのではないか、と考えるようになりました。
 たまたまフランス人の友達がアメリカ人のクラスメートとメディアに関して言い争いをしていることがあったのですが、その友達は、アメリカ人というのはメディアについて何もわかっていないのではないか、アメリカのメディアを世界で一番フェアでよいものだというふうに単純に思っているが、本当にそうなのかみたいなことで話が盛り上がっていました。
 話のなかで彼がふと、フランスではメディアについて小学校から学んでいるので、少なくともメディアの影響力とかメディアというものがどんなものかというのはよくわかっているというようなことを言ったのです。そのときにメディア・リテラシーということを初めて知りまして、それに私は非常に興味を持ちました。
 これは95年のことだったのですが、日本でも非常に重要なものではないかと思いまして、取材を始めました。その結果が、冒頭にご紹介していただいた岩波新書から8月に出版された「メディア・リテラシー」です。
 今日本でも○○・リテラシーというのが非常にはやっています。例えばリーガル・リテラシーとかグローバル・リテラシーとか情報リテラシーとかコンピューター・リテラシーとか、さまざまなリテラシーがあります。私もこのタイトルをつけるのに非常に悩んだのですが、日本では若干、メディア・リテラシーという言葉がこの方面に興味のある方々に知られていましたので、とりあえずメディア・リテラシーという言葉を使ったのです。
 メディアというのは基本的にはマスメディアと考えていただいてもいいと思います。リテラシーというのは皆さんご存じのように読み書きする力です。
 きょうの講演を最後まで聞いていただければメディア・リテラシーがどんなものなのかということがおわかりいただけるかもしれませんが、とりあえず、今の段階ではメディアというものの性質とか社会的な機能みたいなものを理解して、メディアと積極的に向き合っていくような力というふうに、仮に考えていただきたいと思います。
 では、どうしてメディア・リテラシーが必要なのかというふうに考えてみると、まず接触時間の長さです。95年のNHKの国民生活調査によると、日本人は1日平均3時間28分テレビを見ているそうです。それを仮に75年間続けると、75年間のうちの丸10年以上はテレビだけを見て過ごすことになるそうです。ここには睡眠時間は入っていないので、そうなると10年以上ということになります。
 あと、私たちはテレビ以外にも新聞、雑誌を読んだり映画を見たり、あるいは中づり広告をぼんやり眺めたりとか、屋外広告が目に飛び込んでくるとか、さまざまな形でメディアと接触しています。
 そう考えると、われわれが仕事をしているとか学校に行っているとか、そういったメインの活動を除いた余暇の時間のかなりの部分をメディアから情報を収集したり、あるいはメディアが送り出すエンターテインメントを楽しむのに費やしていると言えます。
 これはアメリカのデータなのですが、1日に3時間テレビを見ると、75年間で200万本のコマーシャルを見るそうです。日本の代理店の方にお話を伺ったら、アメリカより日本のCMの方が長さが短いそうなので、本数でいくと200万本以上見ることになるのではないかというふうにおっしゃっていました。
 これもアメリカのデータですが、テレビを毎日約3時間くらい見ると、子どもが高校を卒業するまでにテレビを見る時間の合計は、学校で受ける授業の2倍以上になるそうです。テレビは、ある意味では「教育機関」として学校よりも説得力や影響力があるかもしれないとの考え方もあるようです。
 それから、私たちが今知っていることをどのように知ったのかというふうに考えてみると、メディアの影響力を知ることができるのではないかと思います。例えば、われわれは今日本に住んでいますが、ロシアのことも知っていますし、アフリカのことも知っています。それから、ニューヨークというのはどんなところなのか、あるいは歴史上の人物で織田信長というのはどんな人なのか、あるいは宇宙はどんなところなのか、火星人というのはどういうものなのかというのを何となくいろんなことを知っています。
 われわれは直接的に体験したこと以外、あるいは人から聞いたこと以外のほとんどのことを、いわゆるマスメディアから情報を得ていると言ってもいいのではないでしょうか。
 そこで大切なのは、マスメディアがどういうものをわれわれに伝えているのかということです。私は今ワシントンDCに住んでいますが、日本の方がアメリカにいらしたときにお立ち寄りくださることも多いのですが、例えば日本の方が持っているアメリカ観みたいなものが、アメリカの現実とはかなり違っているのではないかと思うことがあります。
 それはなぜかと考えると、例えば、日本にいてアメリカのことを知るのは、繰り返しになりますがマスメディアを通した情報ということになります。ここにメディア関係の方が何名かいらっしゃると思うのでおわかりだと思いますが、特に報道で伝えることというのは、普通の人が普通のことをしていることはほとんどニュースにはなりませんから、非常に極端な例が取り上げられがちです。
 例えば、マンハッタンで活躍する女性たちみたいなのがよく女性週刊誌の特集記事になったりしますが、マンハッタンでビジネスに失敗した女性特集みたいなのはなかなかありません。
 それから、また女性の話になってしまいますが、シングルマザーというとアメリカでは貧困層で、大変な問題を抱えている層だと認識されている点もあると思います。しかし、日本で取り上げられるアメリカのシングルマザーというのは、華やかでかっこよく、キャリアウーマンみたいな視点から取り上げられる例が多いような気がするのです。それを反映してか、日本の方のシングルマザー観は、ちょっと違ったイメージがあるのかなという気がします。
 それから、アフリカというといつも暗いニュースが多くて、例えば農業で成功したとか、社会に貢献した人とか、そういう例もあると思うのですが、そういうポジティブなことはなかなか伝わってこないと思うのです。
 そういった報道の特性みたいなものがありながらも、受けている側というのは報道されたものが社会を映し出していると考えてしまうのではないかと思うのです。そのギャップについてもっと真剣に考えていく必要がありますし、そこでメディア・リテラシーというのがこうした状況を打破する可能性を持っているのではないかと思います。
 これはよく学校で使うのですが、フレームがありまして、例えば就職活動をされる方ですとか、あるいは大学生でもいいのですが、テレビとか新聞の報道を一生懸命チェックして社会のことを知りましょうというふうに言われることが多いと思います。もちろん、新聞とかテレビのニュースで報道されていることを知ることは非常に大切です。ただ、そこに世の中のすべてがフィットするわけではないのです。
 ゲートキーパーになっている人たちがわれわれの手となり耳となり、われわれにかわって社会で起こっているさまざまなものを選び取ってきて、ある視点からまとめたものがわれわれに提供されているのです。しかし、世界で起こっているほとんどのことは、実は報道されていないのです。ですから、枠の外にあるものに注目して見るということもメディア・リテラシーの重要なことの1つだというふうに思います。
 メディアの枠の外に注目してみるということを今申し上げましたが、仮に今アメリカ大陸が沈没していても、メディアを通して伝えられなければわれわれは知らないこともあり得ます。ですから、何が報道されているかというよりも何が報道されていないかについても注目して見ることによって、実は社会全体の動きというのがよりわかりやすくなるのではないかと思います。
 というのは、私たちがいろんなものを考えたり、あるいは知識を得たり価値観をつくっていく上で素材になるのは、メディアで伝えられた情報だと思うのです。そういった意味で、メディアは必ずしも鏡のように世の中を写したものではないということは当たり前のことですが、そういうところに注目して見るということは、繰り返しになりますがメディア・リテラシーのポイントでもあります。
 ここでメディア・リテラシーの概念みたいなものを簡単に紹介したいのですが、メディア・リテラシーというのは基本的には学校教育の枠内で行なわれているものです。私は一応本にする関係でイギリスとカナダとアメリカの事例に特化していますが、実は世界各国でさまざまな試みが行われています。
 例えば、メディア・リテラシーはロシアとか東欧、ヨーロッパ、スカンジナビア、あるいは南アフリカ、それから北米、オーストラリア、あと南米のチリですとかブラジルですとか、アジアですとフィリピン、韓国、台湾など、さまざまなところで行われているものです。
 しかし、必ずしも学校のカリキュラムに入っているとは限らず、支援団体によって実践されていたり、あるいは市民活動の中に取り入れられていたりする例もあります。
 基本的な考え方ですが、これはカナダの教科書を引用したものですが、メディアはすべて構成されているもの、ということが基本になります。これは先ほど申し上げたもので、現実を鏡のように反映させたものではなくてさまざまな形でつくったものであると。それから、メディアは現実を構成するというのは逆ですが、メディアで伝えられていることの方が真実味があるというような、そういう影響力があるということです。
 それから、オーディエンスという言葉を使っています。これは視聴者とか読者とか、メディアを受け取る側というふうに考えてもいいと思いますが、それぞれがメディアから意味を読み取る。
 これは、メディアの情報が一方的にわれわれに影響するのではなくて、私たちがメディアと接触したときに、自分の興味ですとか知識といったものによってさまざまに意味を受け取る。例えば、ここにいらっしゃる皆さんと一緒にある映画を見たとしても、そのメッセージの受け取り方というのはそれぞれ異なってきますよね。そういう意味です。
 それから、メディアというのは商業的な意味を持つ。これは、公共放送みたいなものは除いてもいいと思うのですが、ほとんどのメディアは利益を上げることを目的にし、また企業広告を母体に成り立っているということです。
 それから、メディアは物の考え方、イデオロギーとか価値観を伝えているということです。それから、メディアは社会的、政治的な意味を持つ。メディアの様式と内容は密接に関係している。それから、メディアはそれぞれ独自の芸術表現を持っている。こういう基本的な考え方があります。
 ここから各国のメディア・リテラシーについてご説明していきたいと思うのですが、その前に、まずビデオでメディア・リテラシーの授業がどのように行なわれているのかということをご紹介した方がわかりやすいと思いますので、ここで皆さんにビデオを見ていただきたいと思います。
 これからお見せするのは、実は神奈川県の音楽の授業です。メディア・リテラシーというのはメディアについて学習するものなのですが、映像について学習していくということも重要なことの1つです。
 例えば、日本の国語の時間というのを考えていただくと、大体文字の読み書きと文学の読解というのが中心になります。しかし、今私たちは、文字だけではなくてビジュアルとか映像、それからテレビとか映画で考えると、映像プラス音楽というコミュニケーションでさまざまなメッセージを受け取っています。その映像と音楽のコンビネーションについて学習している例が今からお見せするものです。
 
(ビデオ)
 
ナレーション
  小学校では音楽の時間にテレビや映画で使われている曲を取り上げています。音楽専任の池田ヤスコさんはメディア・リテラシーの考え方を授業で取り入れています。
 この日の4年生の授業は映像につける音楽の効果がテーマです。これはテレビで放送された動物番組の映像です。音声を消した画面に3種類の違った曲をつけて映像の印象を比べてみます。1曲目は静かな感じの曲でした。これは2曲目。少し悲しい雰囲気です。
 池田さんは画面の中の猿の気持ちを子供たちにセリフで表現させました。
池田
  とりあえず書けた人、起立。
生徒
  泣きたいくらい苦しい。もう死んでしまう。わぁ。
生徒
  こんなに寒いのに松ぼっくりしか食べられないなんて。バナナ食いてぇ。
生徒
  あぁ寒い、あぁ寒い。もう死んじゃうよ。助けて。
池田
  映像は同じだよね。でも、曲を変えただけでこんなに話が変わっちゃった。じゃあ3曲目。
ナレーション
  今度は明るい雰囲気の曲。映像は前と同じものです。
 テレビや映画などでは演出のために音楽が効果的に使われています。それに気づくことがこの授業のねらいです。
池田
  書いた人全員起立。当ててない人を中心にやっていきますから。
生徒
  もう一度頑張ろう。もうすぐ雪がやむかもしれない。木の実でも食べて元気づけよう。
生徒
  やっと食べ物にありつけた。僕って幸せ者かも。
生徒
  きょうはクリスマスだ。木の実も松ぼっくりもごちそうだ。
池田
  なるほどね。いいね。というふうに、映像は同じなんだけれど用いる曲で全部お話が変わってきました。これでみんなのきょうの勉強になったと思います。
ナレーション
  子供たちの印象の変化がはっきりと表れました。
池田
  音楽1つで映像でも違って見えるということを体験しましたから、すぐにというわけにはいかないと思うのですが、テレビ画面を見ていましても、これも音楽でうまくやっているなとか、これはそんな大げさなことではないのではないかとか、そこまで気がつくといいなと思います。
 
菅谷
  今のは川崎の授業でしたが、このように、映像と音楽という私たちが日常的に触れているものですが、改めて音声というものを変えると、映像は全く同じでも意味が変わってくるというのを、私たちはほとんど意識せずに接することが多いのではないかと思います。
 日本ではメディア・リテラシーというのはまだ学校教育に取り入れられていることは少ないので、これは非常にまれな例なのですが、こういったことも行われています。
 メディア・リテラシーの授業でどんなことをやっているのかということを簡単にご紹介したいというふうに思います。
 メディア・リテラシーは、日本でいうと国語の授業に取り入れられている例が多いのです。日本語が国語というふうに言われていることに対しては、イデオロギー的にもさまざまな意味があるというふうに言われていますが、ここでは触れません。
 例えば、英語圏ですとEnglish英語とかLanguage artsという言語という言い方をしますが、こうした授業で行なわれていまして、授業の内容は文字の読み書きや小説の読解ということもありますが、それに加えて、映像について学習するとか、今のような映像と音のコンビネーションについて学習するということが含まれています。
 あるいは、文章で書かれたものを自分の中でイメージしてみて、どうやって自分が文字を映像化しているのかという、文字と映像の表現の違いを考える。例えば、小説の一部を映画化したようなものがあれば、監督が表現の方法としてどのように映像化しているのかということをみていったりする。
 それから、チャートとかグラフというのは教科書だけでなくわれわれが一般的に読むものに非常に多く使われていると思うのですが、それが文字で表現されたものとどう印象が違うのか。あるいは、文字に加えてチャートやグラフであらわすと、コミュニケーションとしてどういうふうに意味が変わってくるのか。
 あるいは、写真みたいなものは必ずキャプションという写真の説明書きがあると思いますが、キャプションがないものに自分でキャプションをつけてみて、実際に雑誌とか新聞でつけられているキャプションと比べて、説明書きによって写真のイメージがどんな印象になるのかということを考える。
 あるいは、メディアの経済基盤。例えば、テレビというのはコマーシャルを流す時間枠を企業に売ることによって成り立っているようなものですが、そういったものについて考えてみる。そういうさまざまなことが行われています。
 これから2つ、どちらもテレビなのですが、アメリカのメディア・リテラシーの授業についてご覧いただきたいと思います。まず最初のものは、ドキュメンタリーについて考えみるという授業です。
 
(ビデオ)
 
ナレーション
  ここはアメリカ。ニューヨーク州のロセスクール。高校1年生の生徒にメディア・リテラシーが正規の授業として教えられています。
 〜英語〜
 
菅谷
  今ご覧いただいたのは、ニューヨークのロングアイランドにある学校です。教材に使っていたのは、ディスカバリーというドキュメンタリーの専門チャンネルがあるのですが、そこが教材をつくっていまして、そのビデオから取ったものです。もともとの素材はBBCがエイプリルフールにつくった映像です。
 これは、ドキュメンタリーを見たときに、自分がそこで取り上げられていることについて知らなければ、それをどう考えていけばいいのかというのを極端な例で示しているものです。
 例えば、先ほど英国調のナレーターをつければ信憑性が増すのではないかみたいなことを言っていましたが、生徒がふだん何気なく見ているようなテレビ番組も、なぜ自分がそれを受けとめていくのかとか、どういう情報源があればそれを自分が信じていくのかみたいに、テレビ番組について自覚的に考えていくというのがこの授業のねらいになっています。
 この教材にはほかのバージョンもありまして、もう1つおもしろいのは、実は地球は平らだったということをハーバード大学○○教授とかいろんな人が出てきまして、チャートとかいろんな写真を用いながら説得力豊かにいかに地球が平らなのかみたいなことを訴えていくようなものもあります。
 ディスカバリーというのは世界百数十ヵ国にドキュメンタリーの番組を提供しているまだ新しい局で、メディア・リテラシーに非常に力を入れています。拠点はメリーランド州という、ワシントンDCのすぐ隣にある州なのですが、州の教育省とプロジェクトを立てています。
 例えばこうした取り組みを放送局の方たちにお話すると、彼らは抵抗があるとおっしゃっていますが、むしろディスカバリーはドキュメンタリーというのは制作者の物の解釈の仕方の1つでしかないということを全面的に打ち出しています。積極的に子供たちにドキュメンタリーの裏舞台を見せていくことによって、ドキュメンタリーに対する理解を深めてもらうことが、実はよい番組づくりにもつながっていくというような発想が背景にあります。
 ことしは、確か延べ3000人のディスカバリーの社員が州内の学校を回って、ドキュメンタリーについていろいろ語るというプロジェクトを立てていたり、あるいはインターネット上に素材を提供したり、あるいは教材を考えたりとか、積極的にメディア・リテラシーを支援しているような局です。先ほどの女性は、実は元ディスカバリーの社員なのです。現在は局をおやめになって、この学校でメディア・リテラシーを教えていらっしゃいます。
 それから、次にお見せするビデオもメリーランドなのですが、高校の授業で、テレビのコマーシャルと番組内容の関係について考えてみるというものです。ここに登場される先生は、テレビ局でキャリアを積まれてきた方ですが、最終的にはネットワークのABCテレビワシントン支局の記者をおやりになっていた方です。
 
(ビデオ)
 
 〜英語〜
 
ナレーション
  きょうの授業は視聴率ゲーム。生徒をテレビ局とスポンサーに分けてCMの値段を決める駆け引きをゲームをします。どの時間帯にどんな広告を流せば一番効果があるのか。どんな企画を用意すればスポンサーは喜んでくれるのか。テレビ番組の企画から放送までの流れについて突っ込んだ話がされていきます。
 ロイド先生はこの学校で働く前、テレビ局でニュースをつくっていました。
 
〜英語〜
 
菅谷
  最後のインタビューに登場した高校生も話していましたが、テレビというのは非常にくだらないもので考えるにも値しないみたいな世間の風潮というのは、別に日本だけではなくて、テレビを見るのだったら本を読みなさいというのはどこの国も一緒なのです。冒頭に申し上げたように、テレビの視聴時間や影響力というのが非常に大きくなっている中で、テレビというのはどんなものなのかということを考えていくことの重要性が認識され、それがメディア・リテラシーの動きにつながっています。ただ、もちろんテレビだけがメディアとして重要なわけではないですから、新聞とか雑誌とか広告とか、さまざまなものについても教えられています。それでは、これからランダムにどんな授業例や教材があるのかということを簡単にご紹介したいと思います。
 例えば、イギリスの場合は、小学校から高校までのレベルでメディアについての学習が行われています。先ほど申し上げたように国語の中に入っているものと選択科目というのがありまして、選択科目は高校の入学資格試験の選択科目にもなっていて、割とアカデミックに認められているようなところがあります。
 選択科目でどんなことをやるかというと、ニュースが制作される過程を学習する。例えば、ニュースバリューというのはどんなものなのかとか、ドキュメンタリーとは何か。それから、広告とマーケティング、メディアがどんなふうに物事を取り上げていくか、ジャンルについて、映画と放送のフィクション、ラジオ。
 これはイギリスなので、イギリスの新聞、ケーブルとサテライトテレビ、メディアと開発、オルタナティブとかインディペンデントメディア、それから、ポピュラーミュージック、メディアオーディエンス。
 特に中学生ですとか高校生というのはポピュラーミュージックとの接触時間が非常に長いですが、音楽というのは若者にいろいろな価値観を提示していく極めて影響力のあるメディアということで真剣にとらえられています。
 例えば、今お見せしたモンゴメリ・ブレア高校ではMTVという音楽の専門チャンネルを授業で見て、そこから好きなビデオクリップを選んで、それを制作した監督のテクニックを分析します。今度は生徒たちが実際にカメラを使って、そのテクニックを真似て、市販のCDに映像を乗せてみるというようなことで、映像のメッセージというものはどういうふうにつくられているのかということを体験学習したりします。
 それから、映画宣伝用の30秒くらいのクリップというのもあります。こうしたものは短時間に作品をいかにおもしろく見せて来場者を増やすことが目的でつくられているものです。授業は実際に映画の素材を使って、どこの部分をどんな順番で切り取ればいいのかみたいなことを制作するということも行っています。
 あと、話がずれますが、先ほどの高校ではスタジオに教育関係者とかさまざまなゲストを呼んできてトーク番組みたいなのをつくって、それを地元のケーブルテレビを通して流しています。このように、授業だけで閉じずに社会と接触していくような、発信みたいなことについてもメディア・リテラシーの授業で行っています。
 それから、この表はイギリスでよく使っているのですが、カメラアングルについて学習するものでして、同じ被写体でもどこに焦点をあてて撮るのか、アップにするのか、あるいは引いて撮るのかということは、例えば文学でいうところの形容詞みたいな役割があるということを学ぶものです。こうした教材を使って、ショットタイプについて学習したりしています。
 あるいは、コマーシャルを読んでみようということで、これは25のショットから成っている30秒のコカ・コーラのコマーシャルです。大体コマーシャルというのはストーリーがあります。そのストーリーをワンショットずつ、どんなシーンで、それはどういう目的で、どんな色使いをしていて、何が映っていて、どんなセッティングになっているかみたいなことを細かく見ていきます。
 もちろんコカ・コーラをいかに買ってもらうかを目的にした広告ですが、それがどのようにつくられていて、われわれの行動にどういうふうに影響しているのかというようなことを、コカ・コーラのコマーシャルをテキストとして使って学習したりもしています。
 それから、これは映像について考えてみるというチャートなのですが、文章もそうですが、映像というのは大体編集がされています。それから、映像の場合はライティングとか色みたいなものがあって、さっきのお猿さんの例にもありましたが音もあります。あと、カメラをどういうふうに使っているかとか、どんなセッティングがあるかみたいなことを学習したりします。
 何と、国語の時間ではチラシも文学と同じように読んでいく。例えば、こういうチラシがあるとすると、なぜこういうセッティングになっているのかとか、どうしてこういう字体にしているのかと。日本でいうと、明朝とイタリックでは何となく文字のニュアンスが違って見えたりすると思います。あと、色によってもかなり印象が違うと思います。こういったビジュアルコミュニケーションみたいなものについても学習します。
 それから、広告もしょっちゅう使われるテキストですが、これはたまたま私が見つけたティファニーの広告です。例えばこういうものがあると、セッティングはなぜこんなふうにしてあるのかとか、あるいは、このモデルさんは清楚できれいな方ですが、なぜこういったモデルを使っているのか。この人はなぜカーリー・ヘアではないのか。あるいは、なぜここにティファニーのロゴをもってきているのかとか、ふだんほとんど何も考えないようなビジュアルでもやはり意味があるわけですから、その意味を考えてみるというようなことも学習の対象になります。
 あるいは、これはイギリスで使われているニュースです。例えば、夜のニュースで同じトピックをBBCとほかの局が扱った場合に、その映像の順番ですとかインタビューされた人のタイプとか、それから、同じ人がインタビューされていればどんなコメントがそれぞれ使われているのかということを比較したりですとか、そういった作業もメディア・リテラシーの授業内で行われています。
 それから、これはカナダの高校のメディア・リテラシーの教科書です。メディアとポップカルチャーをテーマにしていますので、今映像ですとかいろんなお話をしてきましたが、そのなかでも大衆文化とメディアの関係に焦点を当てたものです。
 例えば白雪姫のディズニー映画の例ですが、白雪姫というのは王子さまの手によって幸せになるのはちょっと古いのではないか、みたいなことを子供たちと話し合ったり、あるいは、日本でもおなじみになってきたGAPとかカルバン・クラインのイメージが広告によってどうつくられているのかをみていくものもあります。
 あるいは、これは雑誌のモデルさんなのですが、皆さんご存じのように、この人の手をもっと長くするとかピアスの穴をなくしてくださいとか目をもっとブルーにしてくださいみたいなことは、今は簡単にコンピュータ上で処理できます。子供たちはこういうのを見ると、モデルというのはそのものだと思っているのです。実は色を変えたりとかさまざまなことをしていますが、なかなか私たちはわからないので、こういったことを学習してみる。
 これは車の広告ですが、それから、GUESSとかBENETTONみたいなファッションなど、これはポップカルチャーを扱っているのでどうしても広告が多いのですが。
 あと、テレビドラマも教材として使われます。日本に帰ってきていろんな話を聞くと、例えば、日本でも「ER」という病院を舞台にしたドラマや「ビバリーヒルズ青春白書」というビバリーヒルズの高校を舞台にしたアメリカドラマの人気が結構高いようなのですが、どうも、それがアメリカの病院とか高校そのものをと混同しているような印象がありますが、こうした番組もよく授業で使われています。
 ドラマであれば、どういうセッティングで、どんな理由でそういうふうにつくられていて、主人公たちのそれぞれのストーリーとか性格というのはどんな意味を持っているのかというようなことをまじめに考えてみる。
 あるいはメディア戦略についても考えてみる。例えば、環境団体のグリーンピースはメディアを使うのが非常に上手だというふうに言われていますが、メディアの使い方とわれわれに伝えられるメッセージというのはどんな関係があるのか。
 それから、これはオードリー・ヘップバーンがユニセフの大使でアフリカに入ったときの写真なのですが、なぜオードリー・ヘップバーンを使っているのか。もしオードリー・ヘップバーンではなかったら同じことでもニュースにならないのか。幅広いのでかえってわかりにくいかもしれませんが、とにかく、さまざまなテーマから大衆文化とメディアを考えていくということがメディア・リテラシーの学習でさまざまに行われています。
 簡単に各国の状況について、それぞれ特色がありますのでご説明させていただきます。時間の関係もありますので、イギリスとカナダとアメリカの例でお話をします。
 今のメディア・リテラシーにつながる動きは、1930年代のイギリスにさかのぼるといわれています。当時は大衆社会の到来で、その頃の新テクノロジーであるところの印刷技術が大衆化し、イエロージャーナリズムとか大衆小説みたいなものがどんどん社会に出てきた時期にも重なっていました。
 こうした事態に、文芸評論家たちは低俗な大衆文化から子供たちを守るためにどうすればいいかということを考えたのです。それで、子どもたちが大衆文化に対して批判的な見方ができるようになれば、大衆文化のくだらなさがわかり、それによって古典のような高級文化を守ることができるというふうに考えました。そこで大衆小説とか広告、チラシみたいなものを国語の授業の中に取り入れるようになったのが、メディア・リテラシーの発端と言われています。
 このようにメディア教育はメディアから子どもを守るようなところから始まっているのですが、60年代に入ると、今度はカルチュラル・スタディーズという思潮が登場してきます。日本でも最近本がベストセラーに入っているということで、カルチュラル・スタディーズにおなじみのある方もいらっしゃるかもしれません。
 簡単に説明させていただくと、大衆文化というのは単に低俗でくだらないものではなくて、われわれの文化の中心であるから、それを積極的に理解していこうというものです。こうした考え方の登場で、メディア教育が大衆文化批判というよりは少し広がりのある中教えていこうというような動きが出てきます。
 その後、だんだんテレビが浸透するようになってきて、教師の方々のメディア観も変化するようになって、メディアは悪いものではなくて非常に重要なものだと考えられるようになってきまして、積極的に授業の中に映画とかテレビを取り入れるようになっていきます。
 80年代の後半に入ると、イギリスではナショナルカリキュラムが作られますが、そのときに、英国映画協会という、映画の鑑賞能力を高めたり、あるいは映画に対する理解を深めることで、イギリスの映像文化を高めることを目的とした半官半民の団体が中心になって、メディア教育を授業の中に取り入れるためにロビー活動を展開します。
 その成果が今のメディア教育につながっています。基本的に、イギリスの場合はどちらかというとメディア文化を高めていくという目的でメディア教育が行われていくのです。
 一方、カナダの例はちょっとそれと異なります。皆さんご存じだと思うのですが、カナダはアメリカと国境を接していて、カナダにいるとアメリカのケーブルとかネットワークテレビをほとんど見ることができるのです。カナダ統計局の調査によると、今カナダ人が見ているテレビ番組の約6割はアメリカ製のものだそうでして、昔よりもその比率は減っているそうですが、依然として半分以上はアメリカの番組を見ているような状況です。
 カナダでメデイア・リテラシーが盛んになったのは、自分たちが日常的に接しているアメリカのメディアというのは、実は自分たちの文化とはちょっと異なるものであるという特異な環境にあります。そういうメディアとの距離感みたいなものが強い中で、メディアが構成されたものだということに気がつきやすい土壌があったのではないかと言われています。
 それから、自国の文化を守っていく上で、アメリカ文化というものに距離を置くようにすることで、カナダ文化について考えるきっかけを与えるというようなことも背景にあると言われています。
 それから、カナダではカナダ出身のメディア学者マーシャル・マクルーハンがメディア研究に大きな影響力を持っていますが、彼の教えを受けた高校の国語の先生が、カナダのメディア・リテラシーのリーダーシップをとっています。
 カナダも80年代に今の日本のようにメディア環境の激変がありまして、ケーブルテレビがかなり浸透するようになってくるのです。それと、カナダでは87年にカリキュラムの改定があったのですが、マクルーハンに教えを受けたオンタリオ州の先生が中心となりまして教師による草の根団体を創設して、州政府にメディア・リテラシーを授業で取り入れるようにロビー活動を行い、それが受け入れられたという経緯があります。
 アメリカの場合はメディア・リテラシーがかなり遅れていまして、90年代半ば近くになってから盛んになりました。そして、94年に初めてニューメキシコ州にメディア・リテラシーが取り入れられています。アメリカの場合は州によって教育システムが違っていますが、現在は50ある州のうちの48州が国語の時間にマスメディアの学習をしていこうということがカリキュラムの中に明示されています。
 ただ、アメリカの場合は比較的メディアを悪いものだと考えているアプローチが主流になっているようです。イギリスやカナダに比べると、アメリカのメディアというのは商業主義でビジネス中心ということもあるようで、そうしたメディアに対抗する動きでもあるのでしょう。
 駆け足でしたが、ここからは日本の状況について簡単にご説明させていただきたいと思います。日本でメディア・リテラシーが語られるようになったのは比較的最近のことで、特に注目されるようになったのは90年代半ばくらいからです。市民活動として長年取り組んできた団体も存在しますが、広く関心がもたれるようになったのはここ数年です。
 こうしたきっかけになったのは、神戸の小学生殺傷事件、あるいはバタフライナイフという、ドラマで使ったナイフを真似した少年による事件の発生など、テレビの青少年に対する悪影響や、低俗な番組の増加、やらせの問題とか、誤報などをはじめジャーナリズムの倫理が低下してきた中で、国民のメディアに対する信頼がなくなってきたことが挙げられると思います。
 青少年の問題に関しては、Vチップという、いわゆる暴力とか性表現とかを遮断するような電子デバイスがカナダで開発されまして、それを日本で導入するかどうかを検討しているときにメディア・リテラシーが出てきたのです。
 結果的には、機械で自動的に遮断することはよくないが、そのかわりにメディア・リテラシーを教えることによって、子供たちが自分自身で番組を判断していく力を養った方がいいのではないかと結論づけられます。これはある意味では規制を解除するためのトリックとの見方もありますが、いずれにしましても、日本ではこうしたことから取り組みが始まっています。メディア文化を理解していくとかメディアの性質を知っていくとか、そういうこととは違った入り方をしているのが日本の状況だと思います。
 ですから、放送業界の方はメディア・リテラシーというのは自分たちに敵対するものだというふうに思われているところがあるようです。この辺については最後に申し上げたいと思いますが、私自身は、こういう考え方では解釈が狭すぎるのかなというふうに思います。
 ともかく、メディア・リテラシーは90年代半ばからいろんなところで語られるようになります。例えば、先ほどお見せしたアメリカの授業は東海テレビという名古屋にあるテレビ局が制作したもので、99年に放送されたものです。東海テレビの開局40周年記念番組で、民放で初めてメディア・リテラシーを扱った番組で、民放連の賞も受賞しました。
 私もお手伝いさせていただいたのですが、東海テレビはこの番組が非常に好評だったので、夕方のニュースの枠内でニュースがどのようにつくられているのかを紹介するための「テレビを知ろう」というコーナーを設けています。自分たちのニュースの素材を使いながら情報公開というか、つくられているプロセスを積極的に公開している、世界でも非常に珍しい例です。
 高校生による取り組みもあります。長野県の松本美須々ケ丘高校は、松本サリン事件で報道被害にあわれた河野さんのお宅から徒歩10分くらいのところにある学校なのですが、ここの放送部が、どうもこれは誤報に違いないというふうに考えて取材を始めています。
 生徒たちは、長期間にわたってさらに取材を続けて、なぜ誤報が起きたのかということを検証するために、長野の放送担当記者に複数にわたってインタビューを行っています。それを15分のビデオにまとめたものが日本ビデオ大賞を受賞しています。そのほかにもさまざまな賞を受賞していますが、それが今映画化されているようです。
 その高校生たちが語ったことが非常におもしろかったのです。番組をつくる最初のころは、なぜ誤報が起きたのか、メディアを批判しようということで制作を始めたのです。しかし、実際に放送記者の方々にお話を聞いてみると、皆さんいろいろ迷いながら、葛藤しながら、この情報はまだ不確かかもしれない、でも時間がないみたいな、さまざまな制約の中で一生懸命やっていると。
 放送部員は、それまでテレビ番組というのは普通の人間がつくっているというふうに思わなかったというのがおもしろいなと思うのですが、一連のインタビューを終えてみて、テレビは生きた人間がつくっているのだなということがわかったということを言っていました。視聴者にとって制作者ははるか遠くにいる特別の人で、顔が見えないようなところがありますが、それはそのままつくり手と受け手のギャップの大きさを物語っているのではないかと思います。
 それから、先ほどお猿さんの映像がありましたが、非常に限られた例ではありますが、現在、授業の中で取り入れているという先生もいらっしゃるのです。
 日本では2002年から学校カリキュラムが大幅に変わりまして、総合的な学習の時間という、情報、環境、福祉といったような柱で自由に学習できる時間枠ができます。その枠内にメディア・リテラシーを取り入れていこうという動きもあります。
 さて、ここまではテレビが中心だったのですが、日本では今後IT教育あるいは情報教育が盛んになっていくと思うのですが、今度はメディア・リテラシーの考え方を使って情報教育を見ていきたいと思います。
 まず、私自身非常に考えこんでしまうのは、現在の情報教育は操作中心で、いかにコンピューターを使いこなすかというところで止まっているということです。コンピューターというのがメディア社会においてどんなものなのか、メディアテクノロジーというものについて、もっと建設的かつ積極的に考えていくことが大切ではないかというふうに思います。
 例えば、今学校で調べ学習をしていこうという動きがあります。つまり、インターネットを使って情報収集して、それをまとめていく自主的な学習です。しかし、インターネットで集めた情報をそのまま受け入れて、性質を吟味してみることがなければ、あまり調べ学習の意味がないのではないかという気がするのです。
 例えば、検索エンジンにはさまざまなタイプがありますが、一番使われているヤフーについて考えてみると、ヤフーというのは広告収入で成り立っている企業です。ヤフーに検索するキーワードを入れた場合に、最初に出てくる情報というのはどんな情報なのか、それがビジネスとどうかかわっているのかについて考えてみる必要もあると思います。
 また、先ほどテレビがコマーシャルの時間枠を企業に売ることで成り立っていることを考えたのと同じように、ウェブサイトを見たときに、それはどういう経済構造があって、なぜ私たちが無料で使えるのかということも考えながら情報に接していく必要があるのではないかと思います。
 それから、現在私たちが親しんでいる情報テクノロジーというのは、最初から既定されているものではなくて、実は社会的につくられていくものです。ラジオを例にしてみますが、ラジオというのはもともとは非常にインタラクティブなメディアだったのものが、年月を経て最終的に現在のように受信のみのメディアに変わっていくわけです。逆に言えば、私たちは、コンピューター、あるいはインターネットというテクノロジーをどう使っていくのかを、既存の枠組みにとらわれずに主体的にデザインしていくことが実はできるのです。そうした可能性を考えると、現在のIT教育のように、既存のルールに適応する受け身な教育をしていくことが果たして有効なのかどうか。
 むしろメディア・リテラシーのように建設的な批評能力を使って、情報テクノロジー、あるいはマイクロソフトのソフトウェアはなぜ3年ごとにアップグレードしなければいけないのだろうといったことまで考えていく必要がありますし、コンピューターというテクノロジーをどう私たちに役立つようにデザインできるのかなど、もっと創造的にアプローチすることが必要ではないでしょうか。
 先日、松本の高校で教育実習をする機会があったのですが、そのときにコンピューターの広告を使って授業をしてみました。今市場に出回っているノートパソコンの機能はほとんど変わらないと言ってもいいと思うのですが、どのように売られているのかというのを考えてみるのもおもしろいかなと思いまして、2つの広告を用意したのです。
 松本だったので、設定は田中知事が長野のIT化で、生徒の皆さんに20万円プレゼントしてくれる。ただし、それはノートパソコンを買うのに使わなければいけない。通信販売なので、広告だけ見てどっちが欲しいかというのを判断してくださいと。
 1つはNECのノートパソコンで、「私は私しかいない、だから私だけのパソコン」というコピーですが、これと、キムタクさんが写っている富士通のコンピューターです。これをまず見ていただいて5つのポイントを考えてもらいました。例えば、これはどんなイメージなのかとか、この広告はコンピューターの機能以外に何を語っているのか、あなたはなぜこれを欲しくなるのかといったことです。
 結果的にはこっち(富士通)のコンピューターが欲しいという人たちが圧倒的に多かったのです。その理由は簡単です。まず、このコンピューターには機能の説明が非常に多い。それから、キムタクという、みんなが知っていてかっこいい人が出ていると。
 おもしろいのは、このモデルがキムタクではなくて田中康夫知事だったらどうするかというと、みんなはこっち(NEC)にいくかもしれない。ということは、同じコンピューターであってもここに出てくるモデルというのは実は非常に重要で、だれが売っているのかというのは選択に大きくかかわるというようなことを高校生たちは初めて知ったと言っていました。
 いろいろおもしろいことがあったのですが、授業の感想を作文にしてもらいました。公開授業だったので大体100人の生徒が参加してくださったのですが、多かったのが今まで広告について考えたこともなかったという意見です。もちろん、いつも雑誌を読んだり広告を見ているわけですが、それについていろんな点から考えることはないと。
 それから、授業のときに、広告の制作費とスペースを買うのにどれくらいお金がかかっているのかということをたずねたところ、驚くことに、広告というのはただで載せているものだというふうに思っている生徒が多かったのです。この広告のスペースを買うために例えば富士通は雑誌社に数百万円払っているとは生徒は全く考えていなかったので、私は逆にびっくりしました。
 これは極端な例かもしれませんが、このように、同じコンピューターテクノロジーというものがあっても、その広告がどのように私たちの商品の選択に影響してくるのかということを考えてみることも大事かなと。私は、ソニーのVAIOというのは考えてみるのに非常におもしろいものの1つでもあるかなというふうに思います。
 ちょっと話が蛇行しましたが、メディア・リテラシーについてかなり多面的に話をしてきたので混乱された方もいらっしゃると思いますが、最終的にメディア・リテラシーというのは何を目指すのかというふうに考えると、冒頭に申し上げたように、メディアというのはわれわれにとって非常に重要で、私たちの生活を豊かにしてくれるものだというふうに思います。
 ところが、ここにメディア制作者の方もいらっしゃると思うのですが、現在は少数の制作者たちが「これがいいのではないか」と考えて作ったものを投げてきて、視聴者がそのままキャッチしているような状況です。もちろん視聴者の嗜好は、視聴率や販売数などに間接的に示されていると思いますが、それ以外のかかわり方もあると思うのです。
 メディアがこれだけ大切なものにもかかわらず、実は私たちが積極的にメディアにかかわっていないのではないか。実は私たちがメディアにこんなふうにしてほしいというふうに言うこともできるのではないか。もっとわれわれ自身が制作者と一緒になってメディア社会をデザインしていくことができるのではないか。そのためにメディアを理解していくことが必要なのではないかというふうに思います。
 それから、すべてではないですが、先ほどの、メディアというのは商業的な意味を持つというメディア・リテラシーの考え方の中で、企業の影響力というのは非常に大きいと申しました。では、インターネットでもいいですし、あるいはテレビでもいいのですが、ビジネスモデルというのはどういうものなのだろうか。広告がもしコンテンツに何らかの形で影響しているとすれば、ほかにビジネスモデルがあってもいいのではないか。
 例えば、NHKは受信料という言い方をしていますが、実は会員制で、私たちが見たいような番組をわれわれになりかわってつくってくれるような、私たちがもう少し積極的になれるようなモデルがあってもいいのではないか。
 皆さんご存じかどうかわからないですが、今インターネット上では投げ銭システムというのがあります。基本的にインターネットのコンテンツというのはほとんど無料で見られますが、それによる制約というのが実はさまざまな形であると思うのです。投げ銭システムというのは、大道芸人にお金を上げるように、よいと思ったウェブサイトにお金を寄付していくようなシステムです。
 コンテンツをつくるには非常にお金がかかるわけですから、ビジネスモデルをきちんとしていかないと、なかなかコンテンツを豊かにすることはできないのです。これは1つの例ですが、そのように、メディアが必ずしも今のような固定された状況ではなくて、私たちがつくっていくということをもっと積極的に考えていく上でも、メディア・リテラシーというのは大切ではないかなというふうに思います。








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