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3.質疑応答
司会
  どうもありがとうございました。1時間よりもちょっと時間が過ぎてしまいましたが、ビデオあり、いろんな教材の見本あり、最後にはかっこいい木村拓哉さんの写真までありということで、私は個人的に非常にうれしかったのですが、質問等いっぱいあると思います。どうぞお手をお挙げになって、ご所属とお名前をおっしゃっていただければと思います。よろしくお願いいたします。
 
A
  フォーリン・プレスセンターというものを皆さんご存じかどうか。これは外国のメディアに日本のことを的確に十分に報道してもらうためにいろいろ仕事をしている団体です。私はこの春まで30年以上日本経済新聞におりました。メディアが報じることは世界のすべてではない、メディアは世界を報じている鏡ではないということは非常によくわかるのですが、それが今のメディアの矛盾だと思います。
 一般の人たちは、何が起こっているかというのは、これまでは結局メディアを通じてしか知ることができなかったのですが、インターネットがこれをかなり解決してくれる可能性が出てきたなという気がしています。それでも、やはり新聞を見たりテレビを見たりして世の中で起こっていることを知ると。
 では、それ以外のことは、一般の人は一体どうやって知ることができるのか。それはメディア・リテラシーとどういうふうに関連しているか。それについてはどういうふうにお考えですか。
 
菅谷
  まさにおっしゃるように、極端に言うとメディアを通してしか私たちは物事を知ることはできないわけです。それ以外のことというのは正直わからないわけです。ただ、メディアが伝えるものというのは非常に限られたもので、ある視点から切り取られたものだということがわかることによって、もう少し距離を置いてメディアが提示する情報を相対的に見るということができると思うのです。
 例えば、朝日新聞を読んでこういう記事があったときに、それが起こっていて、そういう見方が提示されているということはそのまま受容してもいいと思います。では、この記事が扱っていない視点はどんなものなのか。あるいは逆に、これがなぜニュースになっているのか。あるいは、ほかにニュースになっていないものもあるのではないかと想像力を働かせて見ることによって、世界をもう少し広く見られると。
 それがある意味では限界かもしれません。ただ、それをするのとしないのとでは世界観の持ち方というのはかなり変わってくると思うので、やはりそこがメディア・リテラシーの重要なところかなというふうに思います。
 
司会
  ほかに何かございませんでしょうか。
 
B
  2点ほど。ここに(配布された資料)NIEのことが書いてあるのですが、これはメディア・リテラシーの文ですか。
 
菅谷
  念のためご説明させていただくと、NIEというのはニュースペーパー・イン・エデュケーションという、教育に新聞を使っていこうという動きです。これはアメリカで新聞の販売を促進させるために考えられた教育プログラムで日本でも取り入れられています。ただ、基本的にはメディア・リテラシーとは少し違うのではないかと思います。
 視聴覚教育というのを考えていただくとわかりやすいと思います。例えば、テレビ番組を使って地理の授業をするとします。それは視聴覚教育です。ある事柄に対する理解を促進するためにメディアを使うということです。例えば、アフリカのことを紹介した番組を見せるというと視聴覚教育です。その番組がどういうふうにつくられているかという中身を見ていくというのがメディア・リテラシーだと思うのです。
 そうなると、新聞の記事を使って例えばアメリカのことを知るというのは、視聴覚教育と同じ意味でNIEということができると思うのです。ただ、最近NIEの中でも新聞の中身自体を問うということが行なわれるようになってきています。
 例えば、アメリカでも若者の活字離れが非常に進んでいる中で、NIEよりもさらにメディア・リテラシーというのがアメリカの教育の中で支持されるようになってきたときに、授業で教材に使ってもらうということが重要視されてきているからだと思います。
 シアトルタイムズみたいな新聞社は自分たちの記事を見せて、あるいはほかの新聞社が書いた同じテーマと比較して、この中身はどうかということを問うようなメディア・リテラシー的な教材もつくっています。ただ、全体的に見るとまだそういった動きは少ないので、この記事で使っているNIEはメディア・リテラシーとは少し違うのではないかと率直なところ思います。
 ただ、メディア・リテラシーというとどうしてもテレビ番組になりがちなので、新聞に対してももっと積極的な読みをすることは重要だと思いますので、今後に期待したいと思います。
 
B
  それともう1点。僕はきょう八ヶ岳の方からやってきました。先ほどのカナダのメディア・リテラシーのことが日本の状況を考える部分になっている。カナダはアメリカからの放送が6割を占めている。実は日本においても、地方にいながら東京、あるいは首都の情報がどんどん入ってきている。つまり、地元のことを知っている以上になぜか芸能界のことをよく知っている人がいると。そういう状況が起きているのではないかと思うのです。
 そういうときに、カナダはアメリカからの文化に対して自国の文化を守ろうとしたみたいに、日本も地方の文化を守るためのアクションというのが必要なのかなと思っているのですが。
 
菅谷
  おもしろいのは、先ほど東海テレビの例を申し上げましたが、東海テレビはメディア・リテラシーの関係者の間では、日本の中のカナダというふうに言われています。それはなぜかというと、名古屋というのは東京と大阪のちょうど真ん中にありまして、アイデンティティが弱いことがあります。名古屋というのはメディア・リテラシーとかメディア活動が非常に盛んなのです。
 それを考えていくと、今Bさんがおっしゃったように、メディアに自分が登場してこないような人たちというのはメディア・リテラシーに非常に敏感になります。
 例えば、アメリカなどではマイノリティー、例えば黒人とかヒスパニックとか、人口としてはかなりの割合を占めているにもかかわらず、あいかわらずメディアに出てくるときは悪者役みたいな人たちというのは、メディア・リテラシーみたいなものに対して非常に敏感になるというのはあると思います。ですから、今おっしゃったような地方の例も同じ文脈でとらえれると思います。
 日本でも最近メディア・リテラシーが盛んです。もちろん首都圏でも非常に盛んなのですが、確かに地方でもいろんな取り組みがあります。それはやはり、自分たちがいつも見ているテレビはなぜか東京の話ばかりで地元の話がほとんどないというのは、まさにおっしゃるとおりカナダ的な状況であります。
 先ほどイギリスの例を出しましたが、実はイギリスでも、特に映画界というのはハリウッド映画に対抗しなければいけないという危機感みたいなものがあります。もちろん、それだけがメディア・リテラシーを推進させたわけではないですが、そういった要素も関係してきます。
 あと、台湾とか韓国でもメディア・リテラシーが結構盛んですが、それは、日本のドラマとか音楽とかが入ってくる中でいかに自国文化を守るかということも、また無関係ではないという要素もあるわけです。
 
C
  東京財団のCと申します。きょうは貴重なお話をありがとうございました。メディア・リテラシーということを意図的に考えたことがなかったので、私自身以前テレビ局に勤めていたのですが、大変刺激になりました。
 そこで1点伺いたいのですが、本日は「メディア・リテラシーと市民社会」ということで、市民社会側のことなのですが、メディアに対してクリティカルな視点というものを身につけた市民は、果たしてどういった形でメディアというものを活用し得るのか。そうすると、市民がメディアの弱点もしくはメディアの限界部分まで理解した上で、いかにメディアというものを道具として活用していけるのかということに興味を持っております。その点について。
 
菅谷
  大事な市民社会というところがちょっと抜けてしまいましたが、ここで補足させていただきたいと思います。
 基本的にメディア・リテラシーというのは、先ほど申し上げたように学校教育の中で行なわれている例が多いのです。ただ、アメリカでは特にメディアの市民活動というのが非常に盛んです。
 何をやるかというと、大まかに分けると、メディアの報道をウォッチしていくという、ウォッチドッグみたいな、モニタリングしていくようなことがあります。それは報道だけに限らずドラマとかさまざまなものです。日本もそうだと思うのですが、アメリカの場合だと事件とか事故の報道というのが非常に多いのです。
 それは果たして世の中で起こっていることを反映しているのかどうかということをチェックしたり、あるいは、コメンテーターとして登場してくるような人は、実は権威筋の人が非常に多くて、市民側の視点に立っているという人がほとんど出てこないのはおかしいのではないかとか、さまざまなデータを取って報道をチェックしていくということを1つ行っています。
 それから、それと逆です。今度はそういったメディアに登場してくる人、話題。それから、メディアの特性。これは、今お話してきたようなさまざまなメディアの特性を学習して、ではどうすれば自分たちの声をメディアに反映できるのかということを真剣に考えています。
 例えば、私はワシントンにいますが、NPOを立ち上げるための講座が頻繁に開かれていますが、そのなかでも重要視されているのがメディア戦略です。というのは、メディアを通していかに自分たちの活動をわかってもらうかということが、寄付金とか活動に対する理解に非常に密接につながってくるからです。そうした中で一番多いのは、いかにニュースにしてもらうかということです。
 いろんなテクニックがあって、例えばデータを取るというのは、○○団体によると最近こんなことがありますというのを私たちもよく新聞で読むと思います。そういうデータを取ってみるとか派手なイベントをやってみるとか、そういった形でさまざまな試みが行われています。
 このメディア・リテラシーの本の中で紹介していますが、サンフランシスコにNPOのためのNPOの広告代理店というのがあります。そこは市民団体のために意見広告をつくって、ニューヨークタイムズとかワシントンポストのような影響力のある媒体に広告を出すお手伝いをしています。ここは市民団体のメディア戦略についてのコンサルティングみたいなことも行っています。
 それから、今の話とちょっとずれてしまうのですが、パブリックリレーションズというのがアメリカで非常に盛んに行われています。例えば、今アメリカで大統領選挙でにぎわっていますが、大統領のディベートみたいなものにはすべてメディアコンサルタントがいます。どんなことをどんなふうに話して、どんな洋服を着てどんな身振り手振りでどんな声のトーンで話せばいいか、このときに足を一歩前に出して右手を出すとか、本当にそこまでメディアコンサルタントは教えているわけです。
 さっきと同じですが、簡単に言うと、パブリックリレーションズというのはいかに新聞に企業のことをよく書いてもらうかということで一生懸命活動しているのです。結局新聞の記事になって出てきたものというのは、私たちが簡単に考えると、ジャーナリストが考えてニュースバリューがあるので書いていると思いますよね。
 それ自体は間違いではないと思うのですが、パブリックリレーションズの会社はいかにニュースに書かせるかということのコツを心得ていまから、われわれが新聞で読むことというのは、PR会社を雇うことができる財政基盤があるところのニュースが多く出てくるような構造になりがちです。
 ですから、例えばPRウォッチという、PR会社がどんな活動をしているのかというのをモニタリングしていくというNPOの団体があって、例えば湾岸戦争のときに議会の前でデモをしたのは、実はPR会社に雇われた人たちだったと訴えたりして市民にPRについて理解を深めるための情報提供を行っています。
 アメリカでは遺伝子組みかえ食品は最近まであまり話題になっていなかったので私も不思議に思っていたのですが、実は、これは非常に大きいロビー団体がPR会社を雇っていて、記者の人たちに遺伝子組みかえ食品は影響ないということを言う科学者にお金を払って、そういう危険性を外に出さないようにしていたという話もあります。’
 最近は特にインターネットを活用して、いかに自分たちがやっていることを外に向けていくかというようなことも行われています。やはり市民としては、メディアというものを読み解いていく力をもつことと同時に、そのテクニックを使っていかに自分たちの思っていることをいかに効果的に発信していくのかという、両方が問われているのかなというふうに思います。
 
D
  私は専門ではないので単なる印象論だけですが、先ほどのスパゲッティーの木がありましたよね。言いたいのは、最近日本のテレビを見ていてもスパゲッティーの木みたいな手の番組ばかりです。
 要は、こういうことが成り立つ前提にはメディア、少なくとも【??シアレスビジネス??】という前提があって、それの示している画面の取り方とかアングルだとか使い方とか、あるいはそこで表現されているものをそれなりのシアレスなビジネスがあって、そこに制作者の意図がちゃんとあるのだという前提で成り立っているような話のように聞こえたのです。
 しかし、現状はむしろそこがだんだん崩れてきて、ある種の【??ワタシナリズム??】みたいなものがなくなってきているのです。しかも、インターネットの時代になってくるとますますそういう傾向、われわれのレベルに逆にメディアの方が降りてくるという感じなのです。当方の関心に合わせた番組しかつくらなくなってきているのです。逆に、社会を誘導していくようなファンクションというのはだんだんなくなってきていると。
 したがって、リテラシーというのは、逆に彼らはこっちの方に合わせてきているというような印象が幾つかあるのです。そういう状況を少なくともアメリカと比べて一体どうなのか。日本だけの特色なのか。アメリカでもやはりそういう傾向があるのではないかと思うのですが、そこにもし日本とアメリカで違いがあるのであれば。
 
菅谷
  制作者が視聴者のレベルにすり寄ってきているということですか。
 
D
  逆につくり方1つにしましても、非常に容易なつくり方をしているような感じがします。テレビなんか最近ほとんど見なくなっているのですが、そういうメディアのあり方みたいなもの自体は、アメリカと日本では違うのか違わないのかというのが質問の趣旨です。
 
菅谷
  一言で言うと非常に難しいものがあります。最近日本で、アメリカテレビ横断何とかという、アメリカの“くだらない番組”を集めた本が出版されたと思います。それはともかく、アメリカでもひどい番組はあります。
 例えば、日本でもあると思うのですが、一度離婚したようなカップルを会場に呼んできて、いかに相手がひどいのかみたいなことを言わせてわざとけんかさせて乱闘するみたいなものもあったりとか。
 少し話がそれますが、アメリカの問題は今メディアのコングロマリット化というか、1つの企業が横断的に多様なメディアを支配してことにあると思います。例えば放送、ラジオ、出版、映画、それからレンタルビデオ、インターネットのプロバイダーとか、すべてのメディア企業が横断的になっています。何か制作すると、映画になったものがあるとすればそれを本にする、それからテレビで宣伝するとか、コンテンツをリサイクルができて非常に効率がいいのです。
 ですから、メディアのコングロマリット化というのが進んでいると、例えばテレビ番組を見ていると自社の宣伝をしているのか何なのかよくわからないような番組というのが非常に多いのです。また、CNNのサイトにいくと、グループの企業ですからタイムという雑誌の宣伝みたいなものもたくさんあります。外から見ると全く違ったような会社なのですが、実は中身は一緒なのです。
 そうなると、自社の利害にかかわることが増えてくるわけですから、そうしたことが社会に出にくい構造が起きてきます。それは日本とはまた違った問題で、やはり多様性が昔ほどなくなっているのではないか。つまり、ケーブルで100チャンネルみたいなものがあっても、実はオーナーというのは非常に限られているようなところがあります。そういう多様性というのがなくなっているのがアメリカの問題の1つと思うのです。
 ただ、報道に関しては、私は日本に帰ってきてちょっと驚きました。昔に比べるとバックグラウンドミュージックみたいなのが非常に派手で、あとコメントなどにも要約したものをスーパーで出しているので、わかりやすいことも確かですが、そのままのニュアンスが伝わらない弊害もあると思います。ストレートなニュースというよりも非常に演出されたようなものが多くなったかなという気がするのです。
 アメリカの場合だと、イシューに対して何かインタビューをすると、コメントを寄せるのは1人ということはなくてさまざまな意見がもう少し出てくるのかなという気がするのです。ある意見があるとそれに対抗するような人が出てくるとか、複数の情報源があって、そのイシューを多面的に見られるように、少なくとも報道は日本よりは多角的であるのかなという気がします。
 ただ、放送関係の方にもお目にかかってそういう話をすると、そういうのをやると視聴率が上がるということになると、先ほどお話しされたように、やはり視聴者にテレビ局がすり寄っていく。メディア社会というのはマーケットエコノミーで動いているとすると、あるいは日本のテレビというのはこれからデジタル化になって非常にお金が必要になってくると、やはり視聴率が取れるものに動いていく。
 逆にいうと、「低俗」なものが非常に視聴率を取るということは、そういうものを見たい人がたくさんいるわけです。ですから、そのことをもうちょっと真剣に考えてもいいのかなと。要するに、われわれは、テレビ局がくだらない番組をやっていると他人事のように思いがちですが、なぜそうした番組が放送されるのか、もしそうした番組が良くないと思えば、もっとよい番組が放送されるようにするためにはどうしたらよいかということもあわせて考えていく必要があると思います。
 人権侵害も問題になっています。では、われわれはその人権を侵害したりしてまでそういう番組を見たいのかどうかというのは、なかなか考えもしないし話し合ったりもしないと思うのです。そういうことを視聴者と作り手が長期的な視野にたって、定期的にフォーラムを開いて語り合ってみるといった地道な作業が必要ではないかというような気がします。たしかにテレビ局は巨大なパワーで一視聴者の声が届かないということもあると思いますので、こうしたことが可能になるには放送局ももっと開かれたものにならなければいけないでしょう。話がそれてしまったのですが。
司会  それでは、すみませんがお時間なので最後の質問にさせていただいてよろしいでしょうか。残りの時間は向こうで個別に聞いてください。
 
E
  先ほどの方のくだらない番組がふえてきたということに私も同感です。極端かもしれませんが、意図的にある勢力がはぐらかしみたいなことをやっているのではないかと私は思うのです。
 2点質問があります。まず1点は、メディア・リテラシーというのを日本で進めていく上で一番の障害となるものは何かということです。あともう1つ、先生は今回岩波から本を出されたということで、今のような感じで分析させていただきます。
 私も本を書いたことがあるのですが、例えば、1つの原稿を持っていくときに、それを出してくれるところを見つけるというのはとても難しいのです。岩波さんでこれを出したというのは、先生の本が世に出てくる背景にひょっとしたら権力闘争があるのかどうか。もしそんな背景のことについて何か教えていただければと思いまして。
 
菅谷
  まず、日本でメディア・リテラシーを展開していく上での障害ということですが、メディア・リテラシーというのはプロセスを学習していくということなので、基本的に答えがないのです。答えがないことを教えるというのは非常に難しいです、特に日本の場合は。答えがあって、先生が答えを解説して、それを生徒が覚える。それをいかに覚えたかということで評価するという流れの中で、プロセスを評価していくこと自体に抵抗がおありの方もいらっしゃるし、それが実際にできるのかどうかという疑問もあります。
 私は各国の国語の授業はコミュニケーションの学習だと考えてもいいのかなというふうに思うのです。例えば、映像を学校で学習するというのは先生たちの中で非常に抵抗が多いのです。やはり国語というのは活字の学習で、活字というのは非常に高級なもので、映像というのは低俗なものだというふうに思っている先生たちも少なくないように思いました。
 それから、メディアを教えるというのは非常にテクニックがいることなのです。数学みたいに答えがあると、虎の巻みたいなものがあれば教えられると思うのですが、メディアを教えるということは、まず今の日本に教材がほとんどないですし、ノウハウもないのです。ですから、教員トレーニングが必要だと思います。
 しかし、その資金をどう獲得するのかなど、さまざまな問題があります。それから、政府がメディア・リテラシーのカリキュラムをつくったら、メディア・リテラシーの中心はクリティカルシンキングスキルという、物事を批評的に見ていくクリエーティブな力を養うようなことを果たして認めてくれるのだろうかとか、さまざまな疑問があるのです。
 その中で私が個人的に考えているのは、教育の中心というのは必ずしも学校が独占しなくてもいいのではないか。今各地にいろんな教育センターみたいなものがあって、社会教育というのが盛んに行なわれていると思います。私は基本的にメディア・リテラシーというのは子供の学習ではなくて大人も含めて必要だと思います。
 ですから、例えば地域ごとにメディア関係者と教育者と、あるいは保護者の方でもいいですし、そういうネットワークをつくっていって、毎週土曜日に講座をやるとか夏休みにやるとか、そういったことを通して学習することも十分可能なのかなというふうに思います。日本ではむしろ学校外での活動としてやっていくことも可能性としてはあるのかなというふうに考えています。
 それから、岩波書店から本が出たことに関しては、本当に残念ながら、私の編集者はほとんど何もおっしゃらない方で、私が書いたものがそのまま本になりました。
 それから、企画に関しては重役会議まであってなかなか厳しいところではありました。私はこれを自分の企画で持っていったのですが、最初からこのトピックはいけますね、みたいなことで、特に何の問題もなくすんなり決まって、ほとんど自分の書きたいように書けました。ただ分量がちょっと短いので書きたくてもスペースが足りなくて書けないことはたくさんありますが、出版に関しては何の問題もありませんでした。私も驚いたのですが。
 
司会
  長時間本当にどうもありがとうございました。
 それでは、先ほど申しましたが、向こうにコーヒーが用意してありますので、菅谷さんを囲んでお話を続けていただければと思います。本当にどうもありがとうございました。
[文責事務局]








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