そうすると、質問がどうやってはかるんですかと。こういう測定的にはいい意味のありながら、非常にまずい質問。つまり、答えが与えられる質問形式になって出てくるんですね。ところが、今の証拠から押さえていく地球の時間の長さというのは、測定ではなくて、経過を並べていく。その経過(プロセス)の変化のあり方を見ているわけですね。
で、時間は見えません、確かに。ところが、測定すると出てくるんですけれども、その測定というのに、どれだけの誤差があるかということは、普通、教育の中では忘れ去られるんですね。僕は東京大学のC14(炭素14)年代測定委員会の委員長を長らく務めたんですけれども、よそから来る質問で、これは古い時代ですから、今では、そんなばかなことは言わないんですけれども、東京大学に年代測定を依頼しますと、こういう結果が出ました。同じ試料を学習院大学に依頼しましたら、こんな答えが出ましたと。どっちが正しいんですかと。もう奇妙な数値信奉派というんでしょうか。例えば誤差がどうだったですかとか、そんな話が出てこないんですね。それから、測定のときのバックグラウンドの値だとか、それを液体化するのか、ベンゼンでやるのか、それとも気体でやるのか、手法によっても違う。もっと言えば、科学者というのは、普通、自分のラボラトリー、自分の実験をしているところの誤差の範囲というのを知っているわけです。だから、普通、測定誤差とかはラボトリー誤差というのは必ず持っているんですね。同じ答えが出るということがないということが科学にあるもので、それを科学でやったら同じ答えが出なきゃならないということ、ユニフォームに出なければいけないということを、ずっと教育されてきてしまった世代、多分、皆さんもそうではないでしょうか。
もう少し広げて言えば、科学で世の中は随分わかってきた。地球環境問題も、科学の発展、科学技術の発展で、これからクリアできると信じている政治家が物すごい多いわけですね。でも、科学というものは、世の中のどれだけのことを、宇宙のどれだけのことを、木村先生の疑問のどれだけのことを解いたかというと、あまりないですね。だから、科学が残っているところとわかったことのどっちが多いかという質問は、これは科学的ではないですよね。