その方はやはり限界を知っておられたと思うのです。できないことははっきりと、動けないからできないわけです。そうすると残された機能、手が動く、口でしゃべれる、お話ができる。そのことに目を向けておられました。はっきりとそういうふうにおっしゃっていました。「無いものねだりしてもしょうがないから、できるところを使うことにしたの」とおっしゃって、ニコッと笑われるんですね。そのニコッに私たちはとても救われました。私たちのいないところでは、きっと葛藤があったと思うのですが、はっきりと自分の意見をおっしゃいます。「悪いけどお茶取ってくださる」とか、「カーテンを開けてくださる」とか、そんなことを自然におっしゃっるんですね。私はそう思っていないのですが、患者さんが考える私の仕事以外のことをやったとしますね。そうすると、「ああ、磯崎さんを使ってしまった」とか言って、いたずらっぽく笑われる。
そういうふうにできるっていうことは、やはり開かれた心がおありだったのではないかなって。人に委ねることができる、できないことは他人様にお願いするという、大きな心、笑顔、そういうものがおありだったと思うのですね。その患者さんが入院されたときに、ずっとホスピスが空かなくて、ご希望の個室が空かなくて、一般病棟で長いことお待ちだったのです。私たちがお知り合いになってから、半年ぐらいお待ちになったかもしれません。いよいよご希望の部屋が空いて、お入りになったときに、第一声でおっしゃったことは「子供たちはもう手放せたの。でもね主人だけが問題なの」っておっしゃいました。確かにご主人はどうしたらいいんだろうっていうふうにオロオロしてらっしゃいました。ところがこのホスピスで過ごされた何日間かを通して、ご主人がお見えになったときにおっしゃった言葉は、「痛みがなく静かに逝けたことがホスピスでよかったことです。そして最後の場面をはっきりと今も頭に焼きついております」と。「それを自分の励みにして生きて行きます。ここに来てよかった」という言葉はいただいたのですが、ホスピスでいた何日間かのやりとりを通して、「人間ていいものだなあというふうに思えてきました」というふうにご主人がおっしゃいました。
これは患者さんの残した最大の遺産だというふうに思いますね。主人が問題なのっておっしゃっていたんですが、いろんなやりとりを通して、そして死へのプロセスを通して、ご主人も納得された。そしてこれから生きていけるとおっしゃっておりましたので、やはりオープン・マインドって言いますか、それを持っておられたということです。彼女は大学時代にカソリックの洗礼を受けて、そのあといろいろいきさつがあって離れていたみたいなんですが、最終的にはまたそこに戻られたようです。
そういうことを考えますと、私も死を迎えるときには、この方のようになりたいと思いますが、多分足下にも及ばないとは思います。そのようなことをいっぱい学ばせていただいているのです。やはりいろんな本音で話し合ったということが、ご主人を強くしたと思います。その方はお母さんとの確執があって、それがちょっとこの人には似合わないなというような恨みと言いますか、トラウマがあったようで、そういうことをちらっとおっしゃっていたのです。お母さんとも和解をされて、患者さんが自分自身の思い過ごしだったと。母親のその当時の気持ち、自分が若いころに母親が言った言葉が引っかかっているということでしたけれども、それも分かるようになったということで、周りと和解をし、そしてお子さんたちにもそれぞれの生き方を残してお亡くなりになったっていう例がありました。