医学の世界、医療の世界はやはり答えを出さなくてはいけませんよね。そういう思考法に慣れていらっしゃると思うのですよね。何か事が起きたら、その原因を追及してそれを絶つという発想でいかないといけないから、それがそのまま横滑りしてしまうと、必ず答えを出さなくちゃいけない。そうすると、行きにくい、足が遠のくというふうになるのだけれども、ソーシャルワーカーはと言いますか、私は全な聞き役に徹するという立場で、答えは出せないし、身体的処置もしませんし、薬のことについても何を聞かれても、私には分かりません。実際分かりませんし、それをお話することは越権行為になるので、答えは出しません。ただ、聞く。聞くことに徹するというふうなことです。なので、多分いろんなことが出てくるのではないかなと思います。お答えになったかどうかちょっと分かりません。
また具体例がありましたらあとで。
松島:そうですね。後ほどまた。吉田さんは先ほど、戦争の体験からお話が始まりましたが、そういったご体験をされ、また現在、たくさんの市民の方々の声も聞かれていると思いますが、そういったことを通して、死というものをどんなふうに考え、お感じになっておられますでしょうか。
吉田:死ですか。私自身がですか。
松島:はい。
吉田:今、勉強中で、ここでお答えできるほどのあれはありませんが、ただ物事には初めと終わりがある。これはプログラムにも書きましたけど、私今、91歳になる母親を介護しています。明治の生まれなのですが、たいした学もない母親ですけど、やはり明治の女性っていうのは、骨太なものがあって、何かそれなりのポリシーめいた言葉を時たま吐くのです。それは、物事には初めがあって、終わりがあるのだと。何か悟ったようなことを時たま言いますので、私も受けて答えていますと、あまり大上段に考えることはないので、初めがあれば終わりがあるのだと、素直に受け入れるという。これは年とともに、向こうからどんどん近づいて来られると、やはりそういうふうになるだろうと、自分から思ってます。ただこれやっぱり年齢によって、多分受け止め方みんな違うと思いますので、余命いくばくとなった私がそう思うというふうに聞いてみてください。
老人と接する機会をできるだけ多く持ってください。若い方にお願いしたいのですね。そうするとおのずとそれは伝わると思います。死というものを、どうやって受け入れたらいいかは覚えていくものではないでしょうか。と、そんなふうに僕は今、思っております。
松島:ありがとうございました。初めがあって、終わりがあるという。その終わりが年が経て終わりが来る場合もあれば、本当に早い時期に迎えなきゃいけないときもあるかもしれません。渡辺先生は本当にたくさんの方を看取ってこられて、年若くしてという方もあったかと思いますが、そういった体験を通して、今、どんなふうにお考えでしょうか。
渡辺:今日のテーマであります「『死』を想え、『死』見つめて、『生』を生きる、『今』を生きる」ということ。これはおそらく、私は哲学者でも何でもないのですけれども、ハイデガーが人間を時間内存在だということを言っていますけれども、死という極限の状況から、自分をもう1回見つめ直して、自分の今、生きている時間をもっと強くしていく。そういった1つの表れが、こういうことに表れていると思うのです。私自身も今、問い続けて、また何を自分ができるかということを、問われ続けているという感じで、そういった中で、患者さんを見ながら、患者さんから勉強させていただいているというのが、実際のところです。