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私は自分に告げてほしいのですけれども、主治医がそうであれば、家内がそういうことを、私ががんであるということがわかったときにどういうふうに言ってほしいということを、今年の4月9日に家内に宣言をいたしました。私やはり「がん」という言葉をできたら使ってほしくないのですね。なんかやはりすごく堪えるのですね。ですから、「どうも、あなた悪いものの可能性も考えておかないといけないようですよ」と言ってくれと、そうしたら私は察知するからというふうに言ってありますので、家内はもしそういう状況になれば、わりに私の要求に忠実な女性ですので、言ってくれるというふうに思っています。これは小さな例ですけれども、本当に結婚記念日にがんを語り合うということ、とても大切な時代に我々は住んでいるというふうに思うのですね。

で、2,500名の方の看取りを通して教えられたこと、たくさん教えられたことありますけれども、二つに集約することができると私は思っています。ごくごく当たり前のことなのですけれども、第一番目は生の延長上に死があるのではなくて、我々は日々死を背負っていきている存在なのだということです。生の延長上に死があるのではなくて、我々は日々死を背負って生きている存在なんだ。普通私たちは元気なとき、自分はこう生きて、いくつぐらいまではこうして、その後こんな生活をして、そしてこうなって、こうなってって、ずっと生の延長上に死があるというふうに普通は思っています。たくさんの方を看取ってきた私ですら――私ですら、というのは変な表現ですが――そのように何かやはり今は思っています。62歳で、阪大の定年が63です。だからあともう2年を切ったのですけれども、その後たぶん私はどこかの私立の大学で少し教職という仕事をすると思うんですが、その後は最近つくった財団ホスピス緩和ケア研究振興財団という財団があるので、その財団の仕事をずっと続けながら、おそらく日野原先生まではいかないと思う、私は88歳で死ぬというふうに、なんか自分でこう思っているんですね。88歳で「ハハ」と笑いながら死んでいきたいというふうに思っているんですが、最後の10年ぐらいは晴耕雨読、静かな、雨の日には書斎で本を読み、晴れたら小さな庭がありますので庭で土いじりをしながら、80歳ぐらいで静かに消えていくかなと。これは生の延長上に死があるというふうに、なにかどこかで思っているのですね。しかし、人生そううまくいくかどうかわかりません。すでにたとえば私の身体のどこかでがんが発生しているかもわかりません。そして私の計画では生の延長上に死があると思っていますけれども、たとえば来年、再来年ぐらい、ひょっとして2〜3年の間に、すい臓がんなんていうのはだいたい発見したときにはもう手遅れですから、そういうことが起こっているかもわかりません。「ああ、惜しい人を亡くしましたね」と言われるかもわかりません。それは本当にわからないですね。ですから、生の延長上に死があるのではなくて、本当に死を背負って生きている、そういう状況が私たちだと思うのです。

私はつい最近、高校の親友を交通事故で亡くしました。本当に生と死がすっとひっくり返ったという感じです。非常に元気な男でした。生と死というのが、あるときには紙の表と裏、表を生とすれば、我々の日常生活というのはその表で生きているわけですけれども、その裏側に死という裏打ちがされている。そして何かこの紙が風のいたずらで、ふっと裏返ることがある。そうしますと、今まで表、生きていたものが、裏返って本当に瞬間的に死を迎える。それほどある意味では我々の命というのははかないところがあって、やはり生の延長上に死があるのではなくて、我々は日々死を背負って生きている存在なのだということを肝に銘じておく必要があるというふうに思うのですね。

 

 

 

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