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南:そういった宗教関係の方のご参加もあるかと思うので、何かアドバイスというか、先生なりの、どういうところで現状だとあまり期待できないのか、何かネックとなっているのはどういうようなことなのでしょうか。

 

田宮:それは、鈴木先生の調査結果にまさに現れているわけです。この世だけ、というのは何でもありの社会になってきたわけです。一方で、私たちの血の中に持っている、次の世界へ期待するものが、子供にそのまま残っているのです。だから子供はしんどくなっている。ところが自分としては今がよければ、ということでやっていると思うので。それと私は宗教者というのは、それこそ目に見えない何かを一方で畏れ──おそれというのは怖いという意味ではなくて畏敬のほうです──嘘のつけない存在というものを自分の中で持たないといけない。要は自分が死んだあとに言い訳しないでいいようにしようと。みんなあるのですが、それをできるだけ少なくして行こうじゃありませんかと。長い時間の中で自分の存在を、ポイントじゃなくて縦の長い系列の中でどう位置付けるかということが今大事だと思います。また先ほど死者儀礼というものが、ひとつの社会通念として位置付けられたということも、そういったこととの重なりがあるのだと思います。

 

南:こういうご質問も来ているのです。45才の看護職にある宮城県の方ですが、「沖縄ではお墓で親族だけではなく、友人を招待してホームパーティを開くと聞いております。こういうことこそがmemento moriということなんじゃないでしょうか。」というのですが、波平先生、これはいかがでしょうか。

 

波平:沖縄の場合は、仏教の影響がかなり後になって入ってきましたし、今でも部分的であるために伝統的な考え方がひじょうに強いのです。しかし日本でもかつてあった考え方です。死んでしまった人はあの世に逝ってしまってここにはいない、というのではなくて、生きている人間と交じり合って暮らしていると。しょっちゅういるのではなくて、時々やって来る。例えば、生きている人間がお墓に行けば、必ずそこにいる。あるいは日本の内地流に言うと、お盆になると生きている人間のところに戻ってくると。そういうつかず離れずの関係で、生き残っている人間と死んでいる人間が交じり合うという考え方から、その習慣があるのだと考えます。死者儀礼を通して、私たちは生き残った人間、あの人たちは死んでしまった、けれども死んだ人を鏡として自分自身がわかってくるという考え方と、今の行事のようなものは一体のものだと考えます。

 

南:それは生きている人にとっては、やはりひとつの救いになりますよね。

 

波平:はい。救いになると同時に、生きるよすがになっているのだと考えます。

 

南:でもそれが、研究の上ではだんだん崩れてきていると。

 

波平:はい、崩れてきて、はっきりした形では捉えにくくなってきております。

 

南:ああ、そうでございますか。先ほど清水さんのお話の中でも、子供がそれと向き合った時、お星様になったとか天国にいったとか。それは子供なりのひとつの結論ですが、やはり救いがあると思うのですね。その辺は、今は本当に殺伐としたいろいろな事件が相次いで報道されたり画像で目に入ってきたりする中で、これからの子供にどういう死の教育を。

 

 

 

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