むしろ死に対処するプロフェッショナルとしての位置付けを作っていく。そういう意味では、死の臨床における文化というものが新たに作られていいのではないかと。それは、看護婦さんたちが「燃え尽き症候群」になってしまうということがありますし、もうひとつは日本ではあまり報道されませんがヨーロッパでは死の現場におられる方が安楽殺をしてしまったという事件が、実に数多いのです。それは「燃え尽き症候群」よりも一歩先へ行ってしまって、自分が逃れたいために「死なせてやるのがいいのだ」というすり替えを起こしてしまった犯罪なのです。ちょっと長くなりましてすみません。私の発言はこれで終わらせていただきます。
南:ありがとうございました。まさに清水さんがいらっしゃるような現場の看護婦さんは、やはり「燃え尽き」とか、若い方にはとてもきついお仕事かと思います。しかし、最近の傾向が社会的にも変わってきている中で、それを志す方は決して減ってはいないという状況ですか?
清水:そうですね。ホスピス緩和ケアに従事したいという看護婦さんは多くて、そういうご希望で入職される方は多いです。あと、今の先生のご意見に現場の看護婦として。私たちは患者さんの死というものに対して、本当にそこで一緒になってしまえば燃え尽きてしまうかもしれませんが、やはりその死に対して私たちが善悪の裁きを持たないというか。たいへん失礼な言い方ですが、その死がよい死であるとか、悪い死であるとか、そんなことを私たちが判断するべきものではなくて、やはり生も死も全て尊いものであって、その方のものであると。そして決して死が敗北ではない、死を否定的に捉えないというような考え方で傍に添いたいということを、みんなでよく話し合います。
南:ああ、そうですか。
ディスカッションのテーマである、日本人の死生観というところに、少し話を戻したいと思います。先ほど鈴木先生のお話で、最近の雑誌の報道やお墓の様子を見ると、どうも現世中心になっている傾向があるとのことですね。つまり、刹那主義というか、現世が大事で、死んだ後のことまではそんなに考えないのだという傾向が出ているということですか。
鈴木:はい。一番始めに申し上げた死後観念でいったところの「無」というのが前提にされているがゆえに、現世だけが全てだ、ということだと思うのです。宗教がある程度力を持って社会に救いを与えていた時代だと、宗教の教えで二元論的にしろ円環的にしろ、死後の生を見据えることができたのだと思います。しかし今はそれがない分、何でもって補うかというのが一番大きな問題じゃないかと思います。
南:そうですね。先生の提言としても、宗教の再興というところに期待できるのかということをおっしゃっていましたが、その辺は田宮先生はどんなふうに考えられますか。
田宮:フロアに宗教関係者がおられると、ひじょうに言いにくいのですが、まあ、あまり今は宗教に期待できない。私個人は、信仰というものに対しては、期待点とかいうものではなくて、とても大切にしています。しかし宗教者に何かを求めるかということは、もうひとつ見通しが暗いだろうなという気がしておりますが、がんばっていただかねばならないのです。それは間違いないのです。日本の場合はお坊さんが絶対多数を占めているかと思いますが、本来のお坊さんの務めを果たしていただければ、別にどうということをとりわけしていだたかなくても、それでいいのです。