よく臨死体験といいますが、あれは死にかけた人が生き返っただけの話であって、自分の死というものは絶対に体験できないわけです。つまり感覚がなくなって死ぬわけですから。死ぬ瞬間に「私は死ぬのだ」というのは、よほどの大事故にあわない限りはあり得ないわけで、必ず死んだかのように見える何分後かに死ぬわけです。だから一人称の死というものは存在しないと書いているのです。
それでは人間は死というものはわからないのか。死というものを本当にわかることはできないのかというと、いや、そうではない。二人称の死というのは第一人称の死、私とほとんどおなじであると。もう少し正確に言うと、第二人称の死に出会うことによって、人は第一人称の死を疑似体験できるのだということです。第二人称というのは、あなたというようなそんな軽い存在ではなくて、私が変わって死んであげたいと思うような、最も愛する人のことを「あなた」と言っているわけです。フランス語で言うところの「あなた」にあたる、そういう「あなた」の第二人称の死。日本人は抽象的な他人事の死と、今言いました極めて重要な第二人称の中間の「2.5人称の死」──田宮先生が新しい言葉を使われましたので、私も新しい言葉を作ってみたくなりました──というのをたくさん経験しています。つまり職場の同僚ですとか、高校や大学の同級生ですとか、あるいはボランティアグループの仲間ですとか、近所の奥さんですとか。お互いに「あなた」と呼び合うような人ではないけれども、まったくの他人でもないような、つまり2.5人称といったような人たちを日本人はたくさん持っているのです。そうした人のところのお葬式に行きます。アメリカ人の場合、よほど親しくなければお葬式に参列したり、まだ90%くらいが土葬ですからお墓の土葬の場には行きません。ところが日本は、火葬場に行って火葬のお骨拾いをする平均人数が増えてきているという、ひじょうに不思議なことが起こっています。私が観察させていただいた時に、赤ちゃんも含めて74人もお骨拾いの場にいたのを見たことがあります。実は都会でも増えています。それだけをご専門に研究しておられる方がいらっしゃるのですが、一般的に日本人が死に関心がないような風潮がある一方で、ひじょうに死に関心が出てきていると。「2.5人称の死」で、日本人がなぜそんなにも関わることが多いのかというと、おそらく「2.5人称の死」にたくさん、頻繁に関わることによって、第二人称の死ほど深刻でないけれども、死というものをいろんなスタンスで考えているのではないか。つまり亡くなった方との距離によって、いろいろな距離のとり方が可能なわけです。私の死には永遠に接近することはできない、第二人称の死にはしょっちゅう遭遇していたのでは身が持たない。「2.5人称の死」の2.25であったり、2.30であったりというところで、死というものを考えるチャンスをわざと得ているのではないだろうか。そういう意味でも、死者儀礼というのは重要だろうと考えるわけです。新しい死に対処するスタイルを作り上げていくのは、どういう形がいいのか、私にはわかりません。しかし知り合いの死者儀礼に参列した時に、私たちひとりひとりがこれからの死への対処の仕方というものを、考えていく必要があるだろうと思います。
それから最後に看護婦さんのことですが、私は田宮先生にまったく同感でございます。看護婦さんというのは、第一人称の死ではもちろんありません。第二人称の死でもないし、第三人称でもない。ひじょうに微妙な、この整理の仕方では整理できないような立場におられる方であろうかと思います。医療人類学をする上で、いろいろな看護婦さんとインタビューをした経験から申しますと、亡くなる方とたくさん接する、例えばホスピスにおられるような看護婦さんたちは、「埒外の死」というものを想定なさってもいいのではないかと思います。