今日のパンフレットで曽野綾子先生が「たまに死を考えましょう、などという言葉を聞くと、私は不思議な気がする。」と書いてありますが、やはり考えて欲しいのです、看護婦さんにも。それもたまにじゃなくて。これは私の講義の名物授業になっているのですが、入棺体験という、棺おけに入るというのがあるのです。ターミナルケアに関わりたいと言っていた看護婦さんが、棺が気持ち悪い、不気味だと。それは先ほどの波平先生のお話の中の、250年間の中で作られてきたひとつの死というもののイメージ、あるいは死者儀礼に伴ってきたひとつのイメージかもしれません。しかし本当に気味が悪いのか。じゃあ、入ってみたらいいじゃないかと。そうしたら、「すごく落ち着く場所である」という。これはね、一度ぜひお入りになってみてください。だから、2度入ればいいんです。ある学生が、その後の感想文を書きました。ちょっと尾篭な話でなんですが、「長く続いていた便秘がすっきりして、そのまま後ろに寝たような感じだ」と。確かにトイレは狭い空間ですし、見事な表現だなと思いました。本当に落ち着きます。また、堅さ加減がいいのですね。患者さんは、否応なしに棺が近づいてくるわけです。それを気味が悪い、怖いという人がそれに関わるとしたならば、どうなのでしょうか。そういうことが、自然に感じ取れるのではないかと思っておりますし、本当に賢明な看護婦さんが欲しい、という気がしているのです。
ところが、私が司会者のお株を奪うみたいで申し訳ないのですが、先ほどの一人称、二人称との兼ね合いでふと思いついたのです。看護婦さんのプロという人たちにしろ、先ほどのニューヨークの話にしろ、映像として見て死を考えたり、命を考えようとする時、私たちは三人称の考えすら、すでに失いつつあるのではないだろうか。それで今、「一過性非人称」という言葉を思いつきました。つまり、またすぐ忘れるわけです。ニューヨークの事件のちょっと前に、新宿の雑居ビルの火災がありました。あれも、全然出てきません。えひめ丸のことを、今はお身内以外はほとんど言わないと思います。それぐらい、私たちはすぐ切り替わってしまうのか。だから、白衣を着ているときは自分の受け持ちの患者さんのことを考えているけれども、でも引継ぎが終わったら、彼氏とのデートの方に頭が行っているかも知れません。でも、それはそれでいいのですよ。私は、ユニホームを着ているときに、本当にプロになって欲しいのです。ちょっとまとまりがないですが、そんなことを希望しますね。
南:ありがとうございました。もう一人称、二人称、三人称どころではない、「一過性非人称の死」という第4のカテゴリーがここで出てまいりました。
波平先生も先ほど、日本人には新しく死の文化というのを作らなくちゃいけないのではないか、もはや人間の死では感性を呼び覚ませない、ということをおっしゃいました。これからの子供への死の教育ということも含めて、いかがですか。
波平:一番初めに鈴木先生が、第一人称、第二人称、第三人称の死、ということでお話なさって、これはたいへん便利がいいものですからついつい使わせていただきまして、そうしましたら田宮先生がまたお使いになりましたので、私もそれに乗っかって話させていただきたいと思います。
ウラジミール・ジェンケレビチは、第一人称の死というのはあり得ないと書いているのですね。第一人称とは私なのですが、ご自分の死というものは、実は頭の中だけであってあり得ないのですね。