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死を一般論的に捉えるというときには、ここにありながら実はここじゃないところにあるような。先ほどから出ているテロの話で言えば、テレビで見るという立場で「映画と同じだな」「映画を超えているな」というような、死というものを深く考えることなく言っているような立場だと思います。それに対して、自分の親しい愛する人がそこにいる、という立場。あるいはそこに自分がいたらどうなるか。それは全然違うことになるかと思います。とりわけ現場の方は私なんかよりももっと現実にぶつかっていらっしゃるわけで、私なんかが軽々しく言うことはできませんけれども、自分の死というものを見据えないと、やはり他者の死というものも絵空事になるのではないかなという気はいたします。

 

南:なるほど。看護婦さんからのご質問なので、清水さんにもうかがいたいのですが、やはり医療の現場にいて患者さんの死と日々向き合っていらっしゃっても、どこかで「誰かの死」というふうに考えないと、なかなか充分な業務が果たせないという部分があるのでしょうか。

 

清水:私自身も父と兄をがんで亡くしたわけではなく、まだ生きているのですが病気のことを話しましますと、義理の妹は28歳のときに白血病で亡くなりました。その時は本当に、日々これだけ患者さんの死と向かい合わせていただいておきながら、と言っては申し訳ないのですが、これほど自分の中で気持ちの処理ができないのか、と実感いたしました。たいへん申し訳ないと思っておりますが、私は看護婦としてお給料をいただき、働いております。ここにもきっと闘病中の方がいらっしゃると思いますが、看護婦に何を求めるか。患者さんはたくさん亡くなっていますけれども、看護婦さん、一緒に死んで、と言ってくださった方は誰もいらっしゃらないのです。ただ、みなさん何をおっしゃったかというと、死ぬほどつらい、こんな悲しい気持ちにいるのだ、それをいつも見ていてくれるあんたがわかってくれればいい、と。ただ、それでいいのだと。あと、「なあ、看護婦さん、あんたはいろいろ指導だ、教育だって言うけどな、そんなことはない。あんたらは、ただひたすら俺の話を聞いてくれればいいのだ。それだけだ。」っておっしゃって亡くなられた臨床心理士の患者さんがいらっしゃいました。日野原先生が感性という言葉をおっしゃっていましたが、とても感性は大事なことです。日々死と向かい合って、目の前にいる患者さんのおつらい気持ちを、自分のものとして受け止めるということは、大事な看護婦としての資質だと思います。やはりそういうような問題にあたる方は、それだけ感性が豊かな方であって、まったくそういうことを感じない看護婦さんに比べたら、つぶれても、感じる看護婦さんのほうがいいのかなと思っております。お答えにならなくてすみません。

 

南:ありがとうございました。その辺になりますと、今の医療現場における看護婦さんが一番身近で患者さんの心のケアも担っているという現状が浮かび上がってきます。そのあたり田宮先生が先ほどおっしゃられた日本では医療と宗教の相乗りがうまくできていないということになろうかと思いますが。

 

田宮:はい。何分いただけるのでしょう。それをまず切っていただきましょう。

 

南:どうぞ、お話ください。

 

田宮:突然、宗教の方まで入ってしまったのですが、最初の参加者の方からのご質問ですかね。かつてインスタントラーメンのコマーシャルで「私つくる人、あなた食べる人」というのがありましたが、「あなた死ぬ人、私生き残る人」と。

 

 

 

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