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そうした中でなお、私たち日本に住む人間は、共通した認識で人とコミュニケーションができる中で、一体どんなふうに「死」というものに対処していく方法、形を作り上げるか。何よりも「あの人が死んじゃってね」と言った次にどんなことを言えば、会話をしようとする相手と言葉が通じるだけでなく心が通い合うのか。そういうマナーというかスタイル、言語表現をどんなふうに作り上げていくのかということが、たいへん大事になってきていると思います。

最後に「葉っぱのフレディ」の話を日野原先生がお話になられましたので、ちょっとふれさせていただきたいのです。現在、出版界で奇跡のように言われているのが「葉っぱのフレディ」と、もうひとつ「いつでもあえる」という絵本なのです。お読みになった方もいらっしゃると思いますが、本屋さんに行くと、このふたつの本はどこにでも平積みにされています。ものすごく売れるのですね。「葉っぱのフレディ」はよくご存知だと思いますので、「いつでもあえる」について申しますと、子犬を可愛がっていた女の子が死んでしまいその死んでしまった女の子について、子犬が語る物語です。子供向けですからひじょうに短い物語なのです。あんなに可愛がってくれた○○ちゃんがいなくなってしまって、もう会えなくなった。ところが生きているときのことをいろいろ思い出してみると、思い出せるようになる。思い出すようになったらどうなったかというと、いつでもあえるようになり、今はその子犬は幸せだ、という物語なのです。こういう本が売れるということはたいへん素晴らしいことで、感受性が高くなっているということもできるのですが、逆の見方もできます。それは何かというと、葉っぱや子犬に託さないと、私たち日本人はもはや死というものを考えられなくなっている。つまり人間の死を通しては、感受性を呼び起こすことができなくなっている、という証でもあろうかと思うのです。まさに大きな転換点に立っている、それはみなさま方も私も含めてです。あえて「死の文化」と言わせていただきますが、日本人はあらたな死の文化を作り上げなければ、人間の核となる芯を抜かれた存在になりかねないという危機感までも、現在私は持っております。

少し長くなりましたけれども、終わらせていただきます。

 

南:波平先生、ありがとうございました。日本人はもはや人間の死では感性を呼び覚ませなくなっているのではないかという、文化人類学のお立場からのたいへん強い訴えかけが、みなさんの胸に響いたことと思います。また、後ほどうかがわせていただきます。

それでは、田宮先生にお願いいたします。

 

田宮:失礼します。今のおふたかたの先生へのコメントを始めたいのですが、一応お約束事で、自己紹介を兼ねた最初の発言をしないといけませんので。

私はとても贅沢な、好きなことをやっております。ちょっと前に、死の問題を考えるととても怖くなりました。私は寺の三男坊なのです。長兄がお坊さんで、次兄が病院の医師をやっております。どっちを見ても当てにならないのですね。お寺へ行ってももうひとつだし、病院へ行っても怖い。こんなところでは死ねないな、ということを思いました。だったら自分が安心して死ねる場を作ろうかと。

ではなぜこんなところで死ねないなと思ったかと申しますと、「祈りの場がない」という言葉で象徴できるかと思います。

 

 

 

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