ところがそれに少しずつ近づいてくると、「あそこで6,000人を超える人が死んだのよね」となります。もう少し深くなりますと、あの瓦礫の山の中に実は肉片が含まれている。肉片というか衣服に付着した肉片をバケツですくって人間の身体を運び出すような、そういう状態なのだそうです。そうするとあの瓦礫は、実は人間の死体の塊が泥や土や金属片にまみれているもの、と見ることもできるわけです。もっと深くなって、自分の知人があそこで死んだということになりますと、あの瓦礫そのものが人間の遺体に見えてくるということもございます。それは物の見方、接近の仕方でありまして、それを私は今、わかりやすい形で申しました。同時に死という思いを考える時、自分が人生の中で積み上げてきた「死」とか「生」とかいうものに関する、表層の部分から湖底に沈んでいるような深いところのどこを取り出して「死」を考えるか。自分自身がどういう構え方をしているかということは、実は自分の「死」というものに対してとらえているものの、引き出される部分が変わってくるものである。いつでも湖の底のようなものを取り出していると、言ってみれば身が持たない。自分にとって遠い死、さきほど鈴木先生がウラジミール・ジェンケレビチの第三人称の死と、ひじょうによくまとめて言っています。その三人称の死を語る時には、水面の表層部分で語れるわけですが、自分の恋人ですとか、親、子の死を語る時には、ずいぶん深いところから取り出されたもので死を語ることになるだろうと。このような人間の生存に関わることというのは、いろんなレベルのものがごちゃまぜになっているけれど、その場その場で取り出されるようなものである。このような考え方をいたします。
日本における死を見つめる行為というのは、長い間非常に同質なやり方で死を考え、対処してきました。それはどんなやり方であったかというと、私どもの言葉でいう死者儀礼、いってみればパフォーマンスです。亡くなってすぐに、かつては湯かん、今では病院で清拭をいたします。その清拭から始まって、どのように遺体を病院から自宅に連れて帰るか、連れて帰ったらどの部屋にどういう形で寝かせるのか、遺体の枕もとに何を供えるのか。すぐに何をし、次に何をし、どこに知らせるのか。知らせる時にはかつては二人一組で知らせましたし、今でも懐中電灯をつけてしらせるところもあります。そういうひじょうに細かなことが全部決まっておりました。
死に関わるパフォーマンスを、私どもの言葉で死者儀礼と申します。その死者儀礼を行う時に、自分の周りにいる人々と交わす会話、あるいは自分の心の中に沸き起こってくるいろんな思いなどを通して、実は生き残ったものと死んでしまったものとが対話をしている。その対話を通して、人間が生きるとは、死ぬとは、ということを自分の中で確認したり、新たな疑問を思い浮かべたり、周りの人と共通認識を持ったりということをやってきたのだということができます。
ところが、今日様々な事情が変わってきました。まず何よりも、人が自宅で死ななくなりました。家族の関係が変わり、地域社会の関係も変わり、親族関係も変わってまいりました。そうした中で、今のような死者儀礼が行われるようになったのは1700年代の後半だと考えられますので、250年くらいやってきたことがガタガタと崩れて、もう行えなくなってしまった。今、私たちはどういう場に立っているかと申しますと、かつての日本人が持っていた、表層から湖底に至るようなひじょうに深く、厚みを持った「死」への対処の整理方法がなくなりつつあるわけです。しかも多様化といえば聞こえはいいのですが、地域差、階層差、職業差、いろんなもので文化が分裂するような状態になっている。