南:どうもありがとうございました。鈴木先生のお話、ちょっと時間が足りなくて申し訳なかったのですが、雑誌の記事とかお墓に見る日本の社会や人々の死生観の変遷を、たいへんわかりやすくまとめていただいたと思います。また後ほど、補足的に何かあればおっしゃってください。
では次に、波平先生にお願いしたいと思います。よろしくお願いいたします。
波平:自己紹介を兼ねて自分の意見を述べるようにとのことでございますが、私の専門は文化人類学という領域です。医療人類学と呼ばれる文化人類学の改良域なのですが、そういうことから医療や病気観とか、人間の治療行動、そして身体観、身体観の中には遺体の観念も含んでおりますがそれらを研究の対象としてきました。
文化人類学の場合は、フィールドワークといって、現地で住み込んで調査をして、できるだけ総合的なデータを集めてそれを基に分析する、ということが第一原則になっております。もうひとつは、文化の多様性と共通性をテーマとするということ。人間は誰もが言語をもっていますが、それは1万種類くらいあるのです。今話題になっているアフガニスタンは、公式に認められている言語だけで70くらいございます。「人間が言語を持っている」ということでは共通性ですが、ではどんな言語を話し、どんな言語に依存しながら物事を考えるかということになりますと、1万種類くらいある。同じようにどんな人間も、どんな時代でも、どんな社会でも、ひじょうに特殊な状況がなければ、人間は人の死体というものをそのまま放置するということはありませんで、必ず何らかの処置をする。しかもその処置はやりたいようにやっていいというわけではなくて、ある時代のある社会では決まったやり方で遺体の処理をいたします。ところが遺体の処理をするということにおいては共通性がありますけれども、そのやり方はまた千差万別であると。つまり共通性と多様性がひじょうに微妙に組み合わさっているというのが、人間の文化である。その微妙なところを、文化人類学では研究の対象といたします。
今日のテーマから申しますと、文化人類学では1つの大きな仮説を持っております。人間の死というのは常に手のひらの裏と表の関係でありまして、死を考えるということは、実は生を考えるということです。生を語り生を考えるということは、実は死を語り死を考えている。つまり死と生というのはどちら側を語り、扱っているにしろ、同じものを語り、考えているというように考えます。
同時に、この生と死といったような、人間の生存そのものに関わる極めて重要で根本的な事柄というのは、わかりやすく表現しやすい部分と、一番深いところは何としても上に持ち上げてくることができないような、深い湖の総体のような部分が、人間の生存のありようです。人間の生と死に関わる事柄というのは、水面の表から湖の底まで、表層から湖底まで全部含んだようなものです。ある時には表面部分で済むのですが、ある時には非常に深いところにおよばないと、人間の死や生というものに思いがいたらないというものです。
では具体的にはどういうことかという例を挙げてみますならば、先ほどから何人もの方がアメリカの同時テロについてお話になりますが、あれをひじょうに遠いものとして見ているときには、ビルの崩壊のことだけについて言います。