岸本先生は東大定年後、日本女子大の学長を依頼されていたのですね。日本女子大を創ったのは成瀬仁蔵という先生なのですが、その先生が病気になって亡くなられる前に、学生に最期の講義をしたいということで、看護婦さん付き添いで講義をされたのですね。臨床講義といって女子大では非常に有名です。私の母がそれを聴いていたのでよく聞かされたのですが。女子大ではそれを記念しまして、毎年亡くなった日に臨床講義をするのですけれども。それを岸本先生が頼まれて、一生懸命考えるのですね。「死っていうのは何だろうかと。」岸本先生はときどき、「灰になるのだ」と言いながらも、「何となく夜になると寂しいのだよな」と漏らされていましたけれども、そのとき「死というのは別れなんだ。別れというものは耐えられるのだと。自分は大きな宇宙に溶け込んでいってしまうのだけれども、そこで生き続けていると思えば耐えられるのだと気づかれるのですね。先ほど日野原先生は「人間は死後宇宙の中に入るのだ」とおっしゃいましたが、そういうようなことを悟られるのですね。そうしまして、亡くなられたのですけれども、その葬儀は宗教葬ではなくて、みんなで出船入船の歌をうたって送ったのです。その一周忌に、岸本先生の友達の当時東北大学の学長だった石津照璽先生が、一言あいさつされたのです。そのあいさつが非常に印象に残っているのです。それは「自分は、皆さん方が一生懸命考えて岸本の葬儀をああいう形でやってくれたのは非常に感謝するし、立派な葬儀だと思ったけれども、宗教を信ずる宗教学者として、あの葬儀でよかったのかということを疑問に思っている」、そういうふうなことをおっしゃいました。浄土真宗を信仰している石津先生にとりましては、浄土に死者を送るいうことが非常に大事なのだ。それを単なる「別れ」という形でやったのが果たしていいのだろうかというふうに、自分は疑問に思ったのだと。そういうことをおっしゃりたかったのではないかと思います。 生前は死ねば灰になるだけだと云っていた私の友達が、死の病床につきまして、奥さんが非常に熱心なカソリックも信者だったのですね。それで、死ぬ前に受洗されまして、私が見舞いに行きましたら、「宮家くん、よかったよ。これで天国へ行けるよ」って。そういう死の設計もあるのですね。
岸本先生のように、非常に客観的に死を見つめて、死後は物質になるだけだと言っている人も、何か宗教的なものに入り込んでいく可能性もあるわけなのですね。
私はさっき「もやいの会」のことを申し上げましたが、それとは逆の形の死の設計もあります。これは、どちらかというと現世のみを前提とするものです。さっき申し上げましたニューヨークのビジネスマンなんかの発想ですね。そういう例として、1991年に朝日新聞の論説委員をされた安田睦彦さんがお始めになった、自然葬を推進することに重点をおいた「葬送の自由を進める会」を紹介したいと思います。1989年に昭和天皇が亡くなられます。そのころ、真剣に死を考えるいろいろな動きが出てきます。1990年には、日本大使だったライシャワーさんが亡くなります。その前にライシャワーさんが暴漢に刺された時多くの日本人が献血しました。ライシャワーさんは、「これで私は日本人の血が入ったから半分日本人なのだ」と喜ばれた、奥さんのハルさんにそう漏らされたそうです。ですけれども、結果的には亡くなった。そのときにライシャワーさんは、最期に自分の生命維持装置を外すように指示されて尊厳死をなさったのですが、そのあと、自分は日本とアメリカの架け橋になりたいのだと。だから、自分の遺骨は灰にして太平洋に撒いてほしいとおっしゃるのですね。そしてそういう形でカリフォルニア沖で散骨なさいました。こうしたことを契機として、今申し上げました「葬送の自由を進める会」というのが発足するわけですね。