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それからもう一つは、自分たちの田舎の村はダムで沈んでしまった。だから、その先祖の魂を持って来て一緒に埋めてもらいたいというものもあります。このようにこの会では歳をとって死後のことで非常に不安になった人々が、お互いに情緒的に慰め合う組織に入って、一緒になって、自分が無縁にならないで有縁になるような形で一生懸命努力されているわけでございます。

この考え方の場合ですと、お気づきのように、どちらかと言いますと来世があって、そして来世は往生するのだけれども、自分は子孫を残していなかったから往生できないのだという、あの世を前提とした往生の仕方を求めているものですね。

今度は逆に、先ほど申し上げました貿易センタービルで飛行機と一緒に死なざるをえなかったビジネスマン、あるいはアメリカの子供なんかのように、現在しか人生がないという考え方の人々が一体どう考えて死を迎えたのか。あるいは死を設計したのか。そのことをお話ししてみたいと思います。

この例として私の先生で、東京大学の宗教学の主任だった岸本英夫先生の死生観をとりあげたいと思います。岸本先生は、昭和28年ごろアメリカのスタンフォード大学で集中講義をされていたときに、皮膚がんになるのですね。日本ですとがん告知を非常に慎重にいたしますから、しないことも多いのですけれども、アメリカは割合ドライですから、岸本先生にがん告知をしたわけですね。「あなたの命はこのままだとあと半年しかもちませんよ。とにかく手術をやってみましょう」と。そういうふうに宣告されたわけですね。岸本先生はすぐに奥様に手紙を出します。「自分の命はあと半年しかないのだ」。アメリカでこういうふうに宣告を受けたのだと。そして、アメリカのほうが医学が進んでいるから、自分はアメリカで手術を受けようと思うのだと。いよいよ死が半年に迫った今、一番気にしているのは、君とか、子供たちが自分が亡くなったあとも生きていけるように、何とか手を打ちたい、これが一点。さっきの「娘を頼む」というのと同じ心理ですよね。もう一つは、残された半年の人生なのだけれども、自分としてはせっかくアメリカに来ているのだから、自分の結論になるような仕事をしたいのだと。自分の人生の締めくくりになるような仕事をしたいのだと。そういうことを書いた手紙を奥様に出すのですね。そうしましたら、奥様は国際電話をかけて、どうしても日本に帰ってきてほしいと。亡くなるにしてもせめて自分の前で死んでいただければ納得できるけれども、アメリカで手術の途中で亡くなられたらとても駄目だ、我慢できないと。こうした問答のあと、奥様が「それじゃあ私が行きます」って云って、単身で飛行機に乗ってアメリカに行くのです。そのときに日本で手にしうるようながんの治療薬をたくさん持っていくと同時に、スーツケースの中に喪服を入れて、いよいよの覚悟をされて行くわけです。幸いにして岸本先生の手術は成功いたしまして、そのあと十年余り生きられるのですが、ちょうど私どもが学生のときには、皮膚がんですから身体の他の部分の皮膚を切り取って移植するのですけれども、移植されたあと包帯を巻いて講義をしておられました。その先生がしきりに言っていられたのは、「死んだら灰になるだけなのだ。だから、今の人生をいかに充実して生きるかというのが一番大事なのだ」と。手負いの猪だと周りの人には言われておりましたが、必死になって仕事をしておられました。

 

 

 

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