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痛みを訴える患者さんを癒すためには、ときどき診察するお医者さんでなしに、四六時中ケアをする看護婦が、時機を見て痛みが現れる前からモルヒネを飲ませるほうが、痛みを訴えてから飲むよりも少量で効を示すのではないかという考えをもつようになりました。そのために、彼女はモルヒネの処方ができる医者になるべく、体の不自由さを押して30歳前になって医学校に入って、医師になったのです。彼女が33歳のときです。

シュバイツァー博士が医者になってアフリカのガボン(当時)に行って現地の人たちのために奉仕したのは38歳のときでした。シュバイツァーは、ある朝起きてきれいな空を見、小鳥のさえずりを聞いたときに、どうして私だけがこのような美しいものを楽しんでよいのだろうか。聞くところによると、アフリカには医者がいないために、大勢の人が病に冒されたままになっている。現地の人のために働く医師はいないかというフランスのミッションの要請に応じてシュバイツァーは現地にいくことにしたのです。それと同じように、ソンダース医師も30歳を過ぎてから、何とかがん末期の患者の痛みを止めてあげたい、苦しみをできるだけ軽減してあげたいと思ったのです。どうしても迎えなければならない死はやむをえないけれども、がん患者が苦しまないで最期を迎えてもらうようにしたいと、ナースやソーシャルワーカーの経験をもつ医師として自分がやるべきだと決意されたのでしょう。

齢をとってから医学校に入るという例はときどきあります。私が関係しているライフ・プランニング・センターのホスピス、ピースハウスで昨年亡くなられた患者さんの一人もそうでした。

ソニーの技術者で、アメリカに留学して博士号を持っている人でした。このまま55歳で定年を迎えるのも面白くないと言って、女医の奥さんと相談して、51歳で退職し、1年の準備で52歳のとき東京医科歯科大学に入学したのです。6年の教育を終えて57歳、そのあと2年の研修を終えて59歳になったころ、どうも食欲がないというのです。医師に診てもらったら、進行したすい臓がんでした。その方は、ピースハウスに入って、半年後に亡くなられました。本当に煩悶されました。せっかく医者になったのにと。しかし、亡くなる2、3日前、死を受容されて、牧師に来てもらって信仰を告白して亡くなられました。お葬式のときに奥さんは、主人がこのようにつらい経験をしたのは本当に悲しいけれども、主人の心が甦ったということを感じると、私はよかったと思うとご挨拶されました。

ホスピスでは、死に臨んでいる方々にできるだけこころの平安を提供したいと思っています。ホスピスというのは医療の分野では小さな事業であるかもしれませんが、一人の死んでいく人のためにその人個人の死を救うことができるのだとすれば、大学病院や大病院ではできないようなことができ、そのことは、非常に意味のあることではないでしょうか。多くのことはできないけれども、少数でも意味のあることをやる看護婦さんやお医者さんがもっと出てこなくてはならないと思います。

日本人はがんによって毎年27万人の患者さんが死んでいます(2001年「国民衛生の動向」)。そして病人のうち4人に1人はがんです。だから、がんというのはよくある病気です。それにかかる頻度は非常に高いのです。

 

 

 

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