不登校は「だれにでも起こり得る」と文部省さえ宣言したこと、不登校の経験者が社会で自立し、経験しなかった人となんの違いもなく活躍していることなどを話しました。なるべく彼の気持ちを取り入れるように、顔色や目の動きに合わせて話しました。
彼はここで、高校を退学し大検の勉強を始めることになりました。とはいえ、毎日来る計画なのに、週に1回だったり全く来ないこともあって、珍しく来たと思ったら「中学校の勉強にも自信がなくなったからもう一度やりなおす」などと言い出したりしました。ここは数人しかいないメンバー、そしてその時間もばらばらですから、みんながそろって計画どおり生活することはほとんどありません。それでも何人か集まった時に急に話がまとまって、近くの書店や科学館をのぞいたこともありました。
1年後には家の近くのお店に頼まれて、留守番役として届いた郵便物の整理に行ったり、その年の年末には郵便配達のアルバイトもしました。お金が欲しかったのです。保育所のボランティアにも誘ったのですがここは女性ばかりだからと敬遠して、お父さんが紹介した、障害者の関係した職場で手伝おうということになりました。こうなると働くことに力が入って、ここへ来ることはほとんどなくなり、学習もしなくなりました。
親同士の交流会。
親も揺らぎ、子も揺らぐ
彼の行動の変化はみな、母からの電話で知らされました。
「どのような形で元気になるかは、個人個人の自由です。社会への意欲を持つことが必要なことです」私は電話で親と共に、私たちの揺らぐ「自信」を互いに確かめ合うかのように言いつづけました。
職場でも、はじめの頃は1時間ほどで帰ったり、ひとりで作業をしていたようですが、1年以上もたつと、職場のほうも必要な時に電話で呼び出して、助けを請うくらいになってきました。そのうち、職場から少しの給与をもらえる時がありました。これは大きな自信になったようです。
だからといって、社会に出る力がついたり、自信がついたのではありません。その仕事を「自分のもの」とはできないのです。元気に動けるように見えてきたのに、彼は迷って再び「大検を目指して勉強する」ことにして、また通ってくるようになりました。
「ずいぶんしっかりしてきましたね」と言う私の評価に母は、「家では何もしない、時々昼近くまで寝ているし、家の仕事は頼んでも返事するだけ、閉じこもっていた時のほうが仕事をしていたようです」
「もう思いどおり要求してもよいといわれても、もめるのがめんどうという気持ちが身についてしまってやり過ごしてしまう」「これでよいのかと思う気持ちもありますが、ここまで回復したのだから良しとしなければと、ぜいたくを言わないようにしています」
これが昨年暮れまでの母の発言でした。