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不登校になってからは、まず私と離れられず、幼稚園の頃できたはずの留守番さえできなくなっていましたが、ひとりでいることができるようになり、裏山へひとりで行っては穴を掘ったり、マンガを描いたりする生活を送っていました。

私たち家族にとっては、もう十分すぎるくらい良い結果であったわけですが、3学期ともなると、どうしても進級の問題やらが出てきました。

3年生になったら…。

 

赤ちゃん誕生と再登校

4月になり、校長先生も担任の先生も変わり、本人も登校してみようという気持ちになったのか、時々学校へ行きましたが…、6月あたりからは、完全にリタイアです。体に症状が出てしまうんですね。アレルギーや、微熱。無理なことをするのは、結局は無理なんだということで、また不登校。

この頃、自分の幼かった頃のことをよく聞いてきたので、大切に愛情を持って育てたことを話し、また実際に最後のお産になるであろう、第3子の出産を私たちは選択しました。その時私は、37歳でした。

1月に赤ちゃんが誕生することを知って、少しずつ変化してきたのは3年生の2学期、私のおなかがだんだん大きくなってきたあたりでしょうか。「学校へ行こうかな」と言ったりするようになりました。また、家のお手伝いは自ら行うようになるなどの変化も出てきました。私の外出時に雨が降りそうになると、洗濯物を取り入れてくれたり、ジャガイモやタマネギなど野菜の皮むきは得意の分野でした。

不登校になりはじめた頃、なんて困った息子だろう、このままの状態のわが子を私は愛することができるだろうか…と思っていましたが、この頃は息子の存在に感謝し、誇りに思っていました。いとしくてしかたない、といった感じでしょうか…。

やがて1月になり、赤ちゃんが誕生すると、今度は「おじいちゃん、少しずつ学校へ行こうかな」と言うようになりました。といっても、登校班で登校するには無理があり、自分の行きたい時間だけ車で送ってもらいながら行きたいというのです。私は出産直後で外出はできませんし、他に日中車を運転できる家族は祖父しかおりませんので、送り迎えを祖父にお願いすることになりました。祖父にとっては、忙しい毎日が始まりました。なんせ、孫の行きたいという時間に送り、また帰りたいという時間に迎えに行くという生活なのですから、本当に大変だったろうと思います。

こうして、なんだかんだと3学期は1日に1〜2時間登校しました。

4年生になったらどうするんだろう…という不安はありましたが、4月からは弟も入学し、案ずるより産むが安し、なんと登校班でいとも簡単に登校するようになりました。といっても、最初のうちはお友達とトラブルがあると、すぐ逃げ腰になっていましたが、担任の先生と校長先生のサポートでなんとか軌道に乗れたようです。

1年半もほとんど勉強もしていなかったので、学力面でも相当苦労するのではないかと心配していたのですが、それほどの心配はいりませんでした。子どもの吸収力はすごいですね。

以後、体の調子が整わない時以外は、元気に登校しています。

私たち親子の不登校は、このあたりで終止符を打ったかと思っています。

 

 

 

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