日本財団 図書館


たいていの母親は、子どもに問題が起きた時、だれに言われなくても自分に非があったのではと悩むだろう。その時、専門家にあなたの子育てのせいだと言われると追い詰めれられてしまい、問題解決に向けて前向きに考える力がそがれてしまう。そして不安が増し、傷つくことを恐れて、安心して相談することができなくなる。しかしA医師は、決して自信を失うようなことは言わなかったし、そのような言い方もしなかった。

言葉の持つ力は大きい。人は、たったひと言で落ち込むこともあるが、ひと言で救われることもあるのだ。A医師に相談するたびに、大丈夫、きっと絵里は元気になると思えて私も元気になるのだった。しばらくは絵里が行きたがらなかったので、私だけが通っていた。何度も同じことを尋ねたり不安をぶつけたりしたが、A医師はいつもていねいに答えてくれ、具体的にアドバイスしてくれた。

例えば、不登校の初めの頃は、担任の呼びかけに応じてクラスの子どもたちが家に遊びに来てくれていたが、呼びかけはやめてもらって、絵里が自分から友達の家に遊びに行くほうが良いという助言もあった。学校に行っていないのに、そんなことできるだろうかと半信半疑だったが、じきに絵里は自分から遊びにでかけるようになった。またA医師は、週に1度、花の香りのついた絵葉書に短い言葉を添えて娘に送り続けてくれた。しばらくすると、絵里はA医師のもとに通いだした。そして、だんだん元気になった。

5月に入り、遠足が近づいていた。友達とは遊んでいても、新しいクラスには一度も行っていない。どうするのだろうと思っていたら、行くと言う。絵里はもともと、人が自分のことをどう思うかを、とても気にするタイプの子だったので、この時私は、子どもの中に何とかしようという、生きる力があることに驚いた。10歳の子には10歳の子なりの解決する力があると言った、教頭の言葉を思い出した。

遠足の次は運動会、それも障害物競走など練習のいらない種目だけ参加したり、また現地学習にも参加した。5年の1学期は行事だけ参加したのだった。

 

夏休みの3つの願い

夏休みに入る前、A医師は私に、夏休みに絵里のしたいことを3つかなえて欲しいと言った。絵里に聞くと、友達といっしょに短期のプール学習に行きたい、ユースホステル関係の団体キャンプに行きたい、そして犬が欲しいの3つだった。キャンプにはひとりで参加したい、だれも私のことを知らない子どもたちといっしょにテントに泊まりたいと言ったので驚いた。もしかしたら土壇場になって、おなかが痛くなって行けなくなるのではないかと心配だったが、約束なのでOKした。

絵里は初めてひとり、キャンプに参加し、輝く目をして帰ってきた。それは、学校に行けなくなったことで、自分をできそこないと思い込んでいた絵里にとって、自信を取り戻すきっかけとなった。

人生は思いがけないことが起きるからおもしろいということを実感したのは、絵里のもうひとつの望みだった、犬がわが家にやってきた時だった。おそらく娘が不登校をしなければ、犬を飼うことはなかっただろう。生後2カ月のラッキーは、不登校によって家族の間に漂っていた緊張感をほぐし、家中に笑いをもたらした。娘と私の関係も、心配をかける者と心配する者という関係から、犬を介して、共に協力したり笑ったりする関係になった。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION