優劣をつけない高校
不登校児を受け入れてくれるという高校に、友達とふたりで受験し、合格して通うことになった。1年遅れて入学したことに不安を感じたりもしたが、同じクラスの中だけでも、そんな人はたくさんいて、そして周りにはそんなことを気にする人はだれもいなかった。どんなに変わっている人がいても、だれもいじめたりバカにしたりしなかった。
「不登校児のほうが優れている」なんて、そんな陳腐なセリフを言う気は毛頭ない。ただあの場所にいた一人ひとりの人が、とても優しかった。ただ、それだけだ。人と人とを比べて優劣をつけない。それだけで人は、こんなにも優しくなれるのだと知った。
先生たちも、本当に友達のようだった。上下関係も何もなく、おっせいかいすぎもしないで、ただ会話をするのが楽しかった。学校全体のシステムがそのようになっていたおかげで、お互い何も遠慮することもない。校長先生さえも、そんな調子だったのだから。休み時間中の職員室は、いつも人がたくさんいた。友達のいない子は、休み時間ごとに先生とおしゃべりしているんだと聞いた。私はありがたいことに、その点ではお世話になることはなかったが、そんな役割もしているのかと、あらためて感心してしまった。実際、救われた人もいるのだろう。入学した生徒全員が、そろって卒業していくわけではないけれど、それでもその学校の態勢は本物だと思った。
今思うこと
卒業してみて、先生や生徒たちから得たものは、とてもすばらしいものだったと思う。
言いたい。親切は必ずしも親切として受け取られるとは限らないと。放っておいたり、見守る優しさもあり、それを求めている人もいるのだということを。
言いたい。不登校や引きこもりを「後ろ向きな思考」と呼ぶのも、学校や社会に出ている人を「挫折する心の痛みを知らずに優位に立っている」と言うのも、しょせん同じでしかないということを。分けて、区別して、比較して、優劣をつけて。いったいそれが、何につながり、何をもたらすのだろう。
数の多いものが正しいのではない。数によって決まるものはしょせん、「多さ」「少なさ」でしかないのだから。
人間と人間を比べたところで、何も変わりはしない。それぞれの個性や特技や心を、好きな方向に向かって伸ばしていけばいい。ただ、それだけだ。完璧を目指したって、高が知れてる。好きなものに向かって、お互い認め合って。そしてそこに、調和が生まれる気がする。