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勉強もしたし、遊びもした。そうしているうちに、いつのまにか、自分のことを好きになっていったのだ。つまり、自分のことを認めてくれる人がいることで、自分はまだまだ捨てたものじゃないと思えるようになっていったのだ。

学力もついてきたことで、劣等感や焦燥感もなくなっていった。また、学力がついてきたことにより、自分は進歩しているという実感もわき、自信につながった。これもよかったのだろう。

しかし、最も根本で支えになったのは、両親の存在である。両親が私のすべてを肯定し、人間として受け入れ認めてくれていなければ、こうはいかなかったろう。両親は、私が学校に行きたくないと苦痛を訴えた時に、受け入れてくれた。

不登校、登校拒否を始めた頃は、とにかく罪悪感が心に重くのしかかる。罪悪感がある時は、学校に行かない自分に自己嫌悪すら感じている。このため、登校刺激などはそれをいたずらに大きくしてしまう。下手をすると、子どもは登校刺激などを、自分を否定しているものと受け取ることもある。また、登校刺激などが親の優しさであることがわかると、その優しさに応えられない自分に悩み苦しむ。

両親はそれを汲み取り、私に何も言わず、私の意志を尊重してくれた。

もちろん、両親も苦しかったろう。私の将来を不安に思ったろう。周囲の目だってある。両親も日々葛藤の渦中にあったはずである。しかし、最後まで信頼してくれた。この信頼がなければ、認めてくれているという実感がなければ、自分を好きにはなれなかったろう。

 

―私の不登校、登校拒否観―

他者に認められる経験が自立の基礎

不登校、登校拒否をしていると、どうやって自立できたのか、立ち直ったのかと何か特別なものがあるかのように聞かれるが、特別な何かがあったわけではない。私にも当然、思春期、反抗期は来た。そのなかで、さまざまな問いが生まれた。その問いと向き合い、葛藤の渦中から自立を獲得していったのである。何も特別なことはない。

自立とは、自らで獲得するしかないのである。自立自体そういう意味であるから、当たり前ではある。しかし、自立の基礎となる自己肯定感も、なかなかひとりでは得られるものではない。もちろん、自己肯定感も自らで獲得するしかない。自己肯定感を獲得する上で最も重要なのが、認められた経験である。

思春期、反抗期になると、自己の存在について考えるようになる。この時、自分が他者にとって必要とされていないと感じたら、自己の存在を肯定できるだろうか。もちろんできるはずはない。自立ができていない時は、まだまだ他立の状態にあるのは当たり前である。他立の状態、つまり他者に認められるか否かが中心になっている状態である。故に、自己肯定感を獲得する上で、他者に認められた経験が重要となってくるのである。

つまり、認められることが重要となるのは、不登校、登校拒否児童、生徒だけに限ったことではない。すべての子どもがひとりの人間として、平等に尊重されなければいけないのである。

すべての子どもが、人間として尊重されなければいけないのは、自立のためだけに限ったことではない。すべての人間が平等であることは、言うまでもなく当たり前のことである。

 

 

 

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