要するに、帆船というものは、そう簡単に動けないですから勘違いしています。九百艘の船がやって来て、さあ、一斉に博多に行きますなんて、そんなことはできないです。私は、たまたま博多に行く風が吹かなかったんで、仕方がないから西にずれて松浦党の本拠地に向ったんだと思います。
それはまだよかったんですけど、次の弘安の役の時に、ここの伊万里湾に二千九百艘という元の大軍が来ました。ここで有名な神風が起こって艦船が沈んだんですけど、この時松浦党は、それはもう自分の土地を守るためですから全員で奮戦しています。ところが、当時の鎌倉幕府というのは、自分の土地を守った者に対しては、恩賞を出さないのです。自分の土地だから守るのは当たり前じゃないかというんで、恩賞の対象にならないんです。だから、文永の役のときに松浦党の本拠地に元軍が来たというのは、嘘だと言われた時期があります。海賊は文書に残してないんです。やっぱり松浦党も内陸の人に比べて土地に対する執着が薄いんです。文書がないもんで、元軍が来た証拠もないと言われていたんですが、今はそれらの文書が出てきまして、徹底的にやらていることが分かりました。
結局、この松浦党は朝鮮との交流が、李朝の懐柔策によって非常に上手く行くようになって、歳遣貿易というのが始まります。年に何回か貿易を許すということになりますと、海賊というのは消えてしまいます。