結局は日振島に千艘ほどの船を集めて、つまり西国、九州・四国から来る米穀を、途中の瀬戸内海で奪ってしまって、京都が干上がってしまうくらいに困らせた。さすがに京都のほうも堪えかねて、何万という軍隊を派遣します。藤原純友には五人の右腕と言われる武将がおりましたが、この武将たちに田地田畠を与えたり下級の官位を授けたりして懐柔します。情けないことに、当時の田舎の人というのは官位に対しては、どうしようもなく弱く、憧れの的なんです。それで一人一人裏切っていって、結局、有能な家来が敵に回ってしまいました。最後に純友は大宰府を攻めて一時は占領しますが、そこも追い出されて、結局は香川県で捕まえられて、息子と二人、殺されてしまいます。これがいわゆる藤原純友の乱です。藤原純友は日本最初の海賊と言われている人です。
ですから、この藤原純友の頃は、これはまだ「海賊衆」という言葉は使いません。恐らく漁師をやったり、畑を耕している人もいたりと、いわば兼業海賊みたいなもので、いわゆる貧民だと思っていいんです。私は貧民のクーデターだったと考えています。
ところが、これが海賊衆に成長していきますのは、永禄・天正の頃です。信長・秀吉の時代になって、村上海賊衆というのが誕生してきます。私はこの時から日本の海賊が始まると思っております。