いずれにせよ藤原純友は伊予の掾といって、伊予では三番目の官位についていたようです。朝廷があんまり税金を取り上げたり、領地や生業を奪ったりするので、見るに見かねたのでしょうか、民衆を集めて反乱を起こしました。平将門とほぼ同じ時期の十世紀頃で、律令制度ががらがらと音を立てて崩れ出した時代です。純友は当時の漁民とか、沿岸農民、いわゆる海賊たちを集めて組織化した人だと思うんです。
ただし、組織を置いた場所が豊後水道にある佐田岬の先の日振島という所です。私は今でも不思議に思っているのですが、ここなら追撃されても大丈夫ではありますけれど、本拠地にしては瀬戸内海から遠過ぎます。藤原純友は、時の勢いに乗れば京都に攻め上ることができたはずです。あの時期の京都は、純友が瀬戸内海賊衆を率いて、大阪から京都に攻めて来るというんで大騒ぎになり、町の人がみんな逃げて行くぐらい動転したんですが、攻めて行かずに引き返してきます。この辺がよく分からないのですが、藤原純友のような海賊と言われる人でも、やっぱり京都の権威は怖かったんじゃないかと想像します。平将門もやっぱり同じです。特に天皇と朝廷に対する尊敬心というのは、この頃の人は恐怖心に近い感情を抱いています。あの鎌倉幕府の創立者の源頼朝でさえ、最後まで朝敵と言われないために、あらゆる手を使って、我慢して我慢して鎌倉政権を作っています。ですから、純友の頃は、もっとその思いが強かったと思うんです。