その当時、愛知の赤羽根という所で砂浜に漁港を造った例があって、それなら片貝でも港が造れるんじゃないかという話になって、私の兄貴が視察に行ったんです。何回も。確か昭和32〜33年のことだと思います。
結局、片貝の漁港は、一番最初は河口の内側に造られました。ですから船はいったん川へ出てから海へ出るわけですが、やはり砂には悩まされました。川の砂と、沖から来る砂がぶつかって、シケの時には川底に砂が山のように積もって、船が出られなくなってしまうんです。それで結局、港の位置が河口の内側では航路が長過ぎて維持できないし、第一危険だから、航路を短くするために外側に造ることになったんです。でも、町と漁業組合の力だけではとても負担金を持ち切れませんから、それには第4種漁港にする必要があったんです。そうすれば90%ぐらいが国の補助になりますから。大体この港を造るのに100億ぐらい、昭和35年からやって約30年近くかかってようやく昭和62〜63年に開港宣言したんです。
でもやっぱり港ができてよかったです。魚の水揚げは漁場に近い所で揚げるということがあって、水揚げの3%はそこの組合に払うものなんです。漁業組合の運営の基本というのは市場の収入が第一ですし、近代化されたいまの船は港じゃないと入れませんからね。
河口を通る時に波が立つとかで転覆したりとかいう漁船の事故はないです。でも、砂底が引っかかるというのには悩まされました。船は壊れないけれど、ズキッと止まってしまって、結局動けなくなるんです。まして潮が引き出した時なんかに引っかかると、どんどん海が浅くなってくるんで、砂が周りに「イドコをつくる」という状態になる。イドコとは「イドコロ」という意味だと思いますよ。だから、そういう時は満潮になるのを待って、その間にさっと帰って来たりしたものです。今はそんなことはありませんが、以前はそういうことをやっていました。
だから今は砂浜が減っていますが、それで漁師が困っていることはありません。むしろ今は砂は邪魔なくらいですよ。何だかんだ言っても、まだ港に砂が入っているところがあって、2年に1回ぐらい必ず浚渫してもらわないといけない部分がありますから。
砂浜といえば、現在では片貝から北の蓮沼あたりが一番残っています。九十九里では昔はミリンボシだとか、ニボシだとかは、砂浜を利用して干場をつくってたものです。それで、そこに加工工場をつくって、国有地を使わせてもらうようになったんです。そのうち行ったり来たりが面倒だということで、住居が進出して徐々に海岸が狭くなっていったんです。私が子供の頃なんかは、大体200mぐらいのきれいな白砂青松があったものです。暑いからってシャツ着たままで泳いだあと、広い砂浜へ行って砂をかぶってバタバタとはたけば、それでもうきれいになったんです。今、海の家が建って、駐車場のために山砂を入れてしまったから、今はそんなことできません。山砂は埃っぽくて体にくっつきますから。
漁港ができる前は、砂浜に船を揚げていました。陸に船を揚げる時はエンジン停めて全部手でやらないとならないんです。それをオッペシにやってもらうわけです。私が子供の頃には、この辺でも20〜30人がオッペシをやっていて、それがいないと船が出られなかった。大きな船を海に出すのに必要な盤と呼ばれる木を砂に敷いて、それの上を滑らせて引きずり出すんです。海中へ入って、首まで浸かって作業をしてたもんです。あれはキツイ仕事で女じゃないととてももたなかったんです。男より皮下脂肪があるからかもしれませんが、男ではとても寒くて耐えられないです。イワシの値は寒い時のほうがいいんですが、冬は波が高いんです。
大きい漁船を出す前には、まず小さい船を1隻だけ出して太いロープを張り、次に小さい船がロープに引かれて盤を敷いた。盤が波にさらわれて外れちゃうこともあった。そうすると砂に着いちゃってイドコになって船が動かなくなってしまうんです。一度そうなりかけた時に、船長だった私がブリッジから裸になって海に入ってオッペシたちに指示したんですが、5分もやったらもう寒くて駄目でした。だから彼女らは本当に良くやっていたと思いますよ。
今でもオッペシの残りが4〜5人います。よくオッペシがいるからとかいって話を聞きに来る人がいますが、彼女らは恥ずかしがって話すのを嫌がるはずですよ。