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【清野】 話をイワシに戻しますが、やはり、九十九里の漁業というのは平本さんのお話にもあった通り、「イワシがメイン」でした。それも食用というよりも肥料としてのイワシ漁が盛んだったのです。この肥料は「干鰯」と書いて「ホシカ」と呼びますが、それを作っていた時代、ここ九十九里浜の漁村の人々には、砂浜がとても大事だったと聞いています。先日、九十九里漁協の方にインタビューした時に、人間の自然観というものは、状況によってこれだけ変わってしまうものなんだと驚きました。つまり、干鰯が経済的に重要だった時代には、砂浜は灼熱の太陽を浴び、下からも放射熱で暖め、干鰯をカラカラに干し上げて、いい製品を作ってくれる工場だというような見方をしていました。この漁村の人たちが浜に出て、作業をするコミュニティの場所でもあったのです。ところが、干鰯が化学肥料に押されて生産量が落ちると、既に干鰯をつくる場所としての砂浜の価値というのは失われて来ました。

また干鰯だけでなく、木綿の漁網の時代には、漁網の乾燥場としても砂浜を活用していました。ところが、時代が変わって漁網が化繊になりますと、別に、濡れたまま放って置いても腐らないということで、むしろ、砂浜は漁港の航路を埋めてしまう邪魔な存在になってしまったのです。

 

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かつて九十九里の砂浜ではこのように干鰯を干す光景が見られた。 1965年(昭和40年)頃

 

九十九里漁業協同組合(片貝漁港)土田組合長へのインタビュー

 

片貝でも、私の祖父より前の世代の人は、砂浜から多くの恩恵を受けていたと思います。と言うのも、イワシを獲ってきたその日に、自分の家で加工して売りに行くといっても、そんなに遠くまで持っていくことはできません。ましてや冷蔵庫が無い時代ですから、売れ残りを保存しておくことはできないわけです。そこで残ったイワシを砂浜に撒くんです。そうすると1週間ぐらいで乾いて干鰯(ホシカ)になるんです。干鰯は食べるものではなくて肥料ですから、砂まみれだって構いません。これを全部俵に入れて、船で佐原から江戸川、江戸川から東京へ、東京から静岡のミカン畑へと運ばれたんです。

その他に〆粕(しめかす)と言って、イワシを蒸して油を絞った残りカスを、肥料や豚や牛の飼料にするものがありますが、これも特産でした。一方で、同じようにイワシが獲れる銚子の港では、イワシを広げる広い砂浜がなかったので、そこでは特産品にはならなかったんですね。こういうわけで、昔の片貝では港は無かったけれども、この辺の人達の生活は砂に助けられていて、むしろ裕福だったんです。

 

そのほかに、地引き網にしても、揚繰り網も、みんな綿でできていましたから、1週間ぐらい使うと必ず1回は干さないと腐ってしまうんです。でも、網をバーッと浜辺へ広げておけば40分もあればサッと乾いてしまった。銚子のような港がある場所は逆に干す場所がありませんから、腐らないように、網にコールタールを塗ったりしていたようですが、結局2年もたてば腐ってしまったんです。この辺の漁網の使用年数は、彼らの倍ぐらい使えましたから助かるわけです。このように、砂浜には色々と助けられていた時代があったのは事実です。

それが、ナイロンの漁網ができて、網を干す必要がなくなると、大きな港があって大きな船がある銚子には都合が良かったんです。逆に、こっちは近代化がどんどん遅れてしまったわけです。国の指導も近代化や省力化という方向へと変わって、「港が無い」ここ片貝ではどうにもならないと結論に至ったわけです。

 

片貝漁港の建設の話は昭和35年頃から始まりました。その前から色々と運動はしていましたが、ここ九十九里では砂が溜まってしまうために、技術的にも難しくて実現しませんでした。運輸省の技師であった鮫島博士という人が「満潮時に水をどこかに溜めておいて、干潮になった時に一気にそれを流せば幾らか航路が保てるのではないか」という案を出したことがあって、やって見ましたがそれほど効果はなかったんです。だからここでは港は無理だというのが漁師の中で常識になっていました。

 

 

 

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