最近まで、土佐では一本買いが当り前だった。獲れたてのその日は刺身、二日目がタタキ、そして三日目が生利節。カツオの大漁にしばしば恵まれる海辺の土佐人たちは、こうして短期の保存法に工夫を重ねてきたのだった。子ども時分の田植えの頃、魚屋の店先ばかりか民家の庭先でも、カツオをワラ焼きする光景が土佐のいたる所で散見できたという。それが歳を重ねて大人になるにつれ、たち昇る白煙はいつしか消えてしまっていた。
「稲ワラ自体が手に入りにくくなったとです。たとえあっても、広げて干す所なんぞ、今どきそうそう見つからんと違いますか」
田畑に大型コンバインが入るようになり、稲ワラを再利用しようとする気運が、農家にめっきりと萎えてしまったのだ。考えてみれば大半の日本人が、明治期を迎えるまで、夜はワラやムシロやワラ布団を敷いた上に寝ていたのだ。それでも高知では、まだワラが掻き集められた。黒潮の余熱で早場米がすくすくと育つ、土佐は刈り入れも早い。八月には稲をはざ掛けに干す。炎天下でよく乾かした新しい稲ワラほど、火の勢いも強い。しかも新ワラで焼くと、身がアメ色に仕上がって美しい。一気に燃えて、さっと鎮まる。手間をかけて干したそんな上質なワラは、日本でも次第に貴重な品になった。
ところがある日、土佐のこのカツオ狂いな男は、高知県から忽然と姿を消した。
黒潮の流れに乗って海流散布されたタネのように、細木さんは見知らぬ東北の地に漂着していた。齢五十二歳の流れ者であった。
福島県いわき市の中之作漁港は、カツオの主要水揚げ港として、東日本では気仙沼や安房勝浦や銚子などに並ぶ。彼はその中之作の海辺に、当地では馴染みの薄いカツオたたき用の加工場を借りたのである。その沖合には常磐沖と呼ばれる、名だたる好漁場があった。