そのころ細木さんは宇佐港のそばにアパートを単身借りるのが惜しく、夜は狭い船室をねぐらに、ヨットマンみたいに暮らしていた。寄る辺ない漁港での寝起きがしばらく続いたある日、ひとりの老漁師が声をかけてきた。それがカツオ獲り名人・辻内恭平さんとの出会いだった。不便さに疲れがかさむのを気遣って、名人は自分の家風呂を使うように勧めた。かつて辻内さんも和歌山県の串本から、四国足摺岬の窪津漁港へと、流れついた旅船の漁師だった。ふたりは打ち解けた。
そればかりか疑似バリの細工加減やいい漁場の見つけ方まで、門外不出の名人技を惜しげもなく細木さんに伝授してくれた。カツオと一瞬を競う曳き縄漁用の釣り針は、かえしの無い方が魚がよく獲れると、助言を与えたのも彼だった。親しみの根は辻内さんも細木さん同様、徒党を組まずにたった一人で孤独にカツオを追う、黒潮の狩人だったからに他ならない。
「いくら巨大なナブラに出おうても、水温が高すぎたら釣れん。カツオは水温十九度から二十度前後が一番釣れるし味もえい。海水の温度を毎度確かめよるうち、そんなこっも、段々よう分かるようになってきた」
その言葉を借りれば、摂氏〇・五度の水温差が彼らの食いをガラリと変えてしまう。いずれにしても、水温が最大摂氏二十四度までの海域ならば、曳き縄漁船を出した。
やがて初夏を迎えるこの季節。水温は魚の生理現象をゆるがし、水揚げ高をぬりかえ、ヒトの懐具合まで大きく動かした。それまで単独の小さな集団で行動していたカツオたちが、いくつもかたまり、より大きなナブラを組む。水温が上昇するに従い、さらに多くのイワシを餌として必要とするためだった。そして黒潮本流が摂氏二十五度まで達する七月。土佐沖のこの漁も、ぼちぼちと幕引きを迎えるのだった。