カツオのいる海域は遠い。
無理してスピードを上げれば、ディーゼルエンジンは殊のほか燃料をくう。そこで他の漁師にならって、彼は前日の晩おそくに出漁した。早めに港を出て、闇の海を裂きながら、漁場へゆっくりと向かった。早朝からの漁にも、それで十分間に合う。
ところが美しい払暁とは裏腹に、怪しい東風が海に強く吹きだした。冬型の気圧配置が、悪戯な風を呼びこんだのである。たいがいの漁船が港へ次々と引き返しはじめた。なのに向こう見ずな細木さんは、釣りたい一心から船を沖に向けてどんどん走らせた。途中、ほんの小手調べにシイラを数匹揚げた。
その二週間まえに勤務先のリストラで失職したという事実が、初出漁を思いのほか焦りと勇み足に、変えていたのかも知れない。しかもまだ、働き盛りの四十三歳だった。
「シケた日は市場にも魚が入らんので、水揚げすると魚にえらく値がつく。そんで本気で稼ぎたい漁師ほど、無理して出漁するとです。でも最初はそんな仕組みさえも、私は全然わからんかった」
高校、大学とラグビー部でしこたま鍛え、引退後もその鍛練は続けられたので、ケタ外れな体力には自信があった。サーフボードの輸入販売に携わった二十代後半から三十代にかけては、デモンストレーションを兼ねて波乗りも懸命に覚えた。波に体を張るサーファーたちに高知は人気が高い。太平洋の三角波が押し寄せるその浜辺に、上級者むけのポイントがいくつもあったからである。アメリカのサーフィン映画『ビッグ・ウェンズデー』が、日本でヒットしたのもその頃だった。それだけに少々の荒れた海にたいしても、彼は気楽に平然と構えてしまったらしい。
気がつくと朝、仁淀川の河口からおよそ百マイルも離れた外洋の青空のもとに、細木さんの老朽船はぽつんとただ一隻浮かんでいた。いや進むこともままならず、暴れだした海に縮こまっていたと言うべきかもしれない。