とはいえ海に出たての間もないころ、細木さんの持つカツオ漁の知識はかなり乏しい。彼が狙うのは、とてもエサの豊富な海底の岩場・根に群れて集まる根付きナブラだった。漁師らはカツオの群れを、むかしからナブラと呼ぶ。そこでタタキをこしらえるのにぴったしな、重さ二キロから二・五キロの魚体が、面白いように釣れたという。彼らは生後二年をへたカツオだ。そんな群れはふたつの潮流が押し合いへしあいする、潮目によく湧くのだった。彼らは時々、ヒトをくったお茶目な行動をとった。
「こっちが油断してもたもたしよったら、カツオん群れは、あっという間に海面下に消えてまう。それでしばらくすると、また別な場所にひょっこり現れるんよ」
彼らは表層から水深二百メートルくらいまで平気で潜る。直径たった一ミリの卵が、ぴちぴちとしたそんな三歳魚になるまでの成長の過程はとても早い。やがて四歳を迎えると、ほとんどが大がかりな回遊をやめ、すべてが産卵活動に加わる。それでも最長で七年と言われる一生のあいだに、カツオは昼夜の隔たりなく、せわしない旅を続けるのだった。
当然ながら、人間たちとの苦い出会いも、そこでいくたびと重ねていく。三百年を遡る江戸期には相模湾小田原の渚にさえ、群れてうじゃうじゃと出没したというのに、今ではもうなかなか現れない。とうに廃れたあちらこちらの漁場で、魚も人間を学んできたのだ。そしてヒトもまた知恵を競った。
海の恐ろしさを気にもかけず、いよいよ初めて専業漁師として細木さんが沖に出かけた日のこと。気まぐれな四月の土佐沖で早速、思いも寄らない時化に遭難しかけた。