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しかし、これだけの大惨事でありながら、この事件は何故か世間から忘れ去られてしまったが、その理由は既に述べた通りである。

この事件の直後から、イギリスの船員たちは言うに及ばず、国民の間でも再び四年前のケンドール船長にまつわる噂話がささやかれ出したのであった。

事故は正にクリッペンが逮捕されたファザーポイント付近で起きたのである。偶然にしても恐ろしいほどの一致である。

ヘンリー・ケンドールは船乗り達が信じていた通り、やはり呪を受けていたのであろうか。

その後のケンドールは陸上勤務となり、名前は消えて行った。

この事件についての海難審判は、第一次世界大戦が始まった直後にケベックで開廷された。

その中で、事実関係についてどの様な証言があったのか、またどの様な陳述があったのか、また最終的にどの様に結審したのか、部分的な内容しか伝わっていない。

従って、アイルランド号とストールスタッド号のいずれの側に事故の責任があったのか、正確な事は今もって不明である。

ただ、この事件について断片的に触れているいくつかの資料の中でも、事故の責任は全面的にストールスタッド号の側にあると記述しているが、具体的な理由を説明しているものはない。

事故発生に至るまでの状況が、いくつかの資料や書籍に記述されている通りであったと仮定しても、事故の責任がどちらの側にあったのかを単純には決めかねる、いくつかの疑問点が出て来る。

もし、事故に至るまでの両船の動きが伝えられている通りであるとすれば、ストールスタッド号の側の責任は確かに重い。

何故、川を下る船に支障をきたす、右岸に近い航路を航行していたのか?反航して来る船を航法の原則通り左舷対左舷で航過出来ると予測しても、その後視界がゼロになった霧の中で、航法の原則通り一旦停船の処置を何故とらなかったのか?

 

 

 

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