日本財団 図書館


その絵には、横倒しになったアイルランド号のデッキの手摺や舷側につかまって、恐怖におののいている大勢の寝間着やガウン姿の男女が描かれている。

彼等にはこの後、さらに恐ろしい試練が待ち受けていたのであった。それは氷の様に冷たいセントローレンス川の水であった。

アイルランド号が横倒しになるまでのわずか十分間の間に、九隻の救命艇が降ろされていた。急激に傾く船上から、この様な短時間の間に九隻もの救命艇を降ろす事が出来たのは、記録的な早さであり、むしろ奇蹟と言って差しつかえなかろう。

この九隻の救命艇の存在こそが、アイルランド号の遭難事故に向けられた唯一の光明であったのであった。

アイルランド号が衝突してから沈没するまでのわずか十四分間の間に、乗客達の間にどの様なドラマがあったのか、ほとんど伝わっていない。

何もかもが一瞬の出来事で、救助された者総ては、恐らく脱出する事が精一杯であり、記憶の中には何も残っていなかったに違いない。

一等船客の名優ローレンス・アーヴィングと、その妻マーベル・ハックニーの最後を知る者は誰もいなかった。

セントローレンス川の水温は、雪解け水のために身を切るほどに冷たく、その中で長い時間、人間が生存することはほとんど不可能に近かった。

どれほど多くの人たちが川に飛び込んだのか、その数は全く不明である。

恐らく、どの様な調査をしても、その数を確認する事は不可能であったに違いない。

この状況の中で、救命艇に助け上げられた人々は、幸運と奇蹟以外に選ぶ言葉はなかった。

もし、アイルランド号の九隻の救命艇が降ろされていなかったら、乗客の犠牲者は、タイタニック号の悲劇を圧倒するほどの悲惨な結末になっていたであろう。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION