「前進全速」の指令を出した直後、ケンドールは針路の横切りは既に無理であると思い直した。
彼の頭の中は混乱していた。今までこの様な切迫した状況を一度も経験した事がなかった。しかし、彼は決断をしなければならない。
手遅れであるかも知れない。しかし、やはりアイルランド号を停船させ、出来得るならば後退させて、両船の衝突を回避させるしか取るべき手段はないと判断した。
ケンドールは今度は機関室に対して「後進全速」を指令した。
機関室では、当直者全員が事の異常さに気がついていた。
一万トンを超える大型の船の速力や、前後進は容易に変わるものではない。
総ては間に合わなかった。手遅れであった。
右舷方向から幻のように現れた船の影は、見る間にアイルランド号に迫り、次の瞬間、その船首は大音響と衝撃と共に、アイルランド号のブリッジの直下の舷側に撃突したのであった。
二隻の船はT字型に噛み合ったまま停止してしまった。
衝突の瞬間、ケンドールは無意識のうちにエンジンテレグラフに飛びついていた。
彼は機関室に対して再び「前進全速」の指令を出した。今彼がとるべき手段は一つしかない。噛み合ったままの二隻の船を何としても右岸近くに移動させ、浅瀬に座洲させて沈没を防ぐ事であった。
しかし、機関室からは何の応答も返って来なかった。
この時既に機関室には大量の河水が流れ込んでおり、機械の操作はおろか、ボイラー室では投炭も不可能なほどに急速な浸水が始まっていた。