つい十分ほど前まで左舷を見せていた大型の客船が、いつの間にか右舷を見せて自分達の船の前にいるではないか。
「何故だ!」
ストールスタッド号は、そそり立つその黒い影に、まるで吸い込まれるように接近して行った。
一方アイルランド号では、船長のケンドールは「後進全速」をかけられたアイルランド号が、霧の中を、まだ徐々にではあるが前進しているのを感じていた。
相手の貨物船らしき船は当然停船しているであろう。
周囲は夜目にも白く見える霧で覆われ、何も見えず不安ではあった。
突然、霧を透して白いボンヤリした灯火が右舷ななめ前方に現れた。全くの突然である。
「船だ!」
距離はわからない。但し近い、しかもこちらに近づいて来る。
ケンドールは気がついた時にはエンジンテレグラフに飛びつき、機関室に「前進全速」を指令していた。
相手の船はアイルランド号に向って来る。「相手の船の針路を急いで突っ切るしか回避の方法はない」
ケンドールは咄嵯に判断した。アイルランド号はこの時、行き足を止めるために機関は後進全速中であったのだ。
機関室では、それまでとは、全く逆の指令が来た事で何か突発の事態が起きたらしい事は分ったが、とにかく、ブリッジからの指令を忠実に実行せねばならない。「前進全速」への操作が至急に進められていた。
ブリッジでは、ケンドールが乗客や乗組員たちの生と死を分ける瞬間の判断に迫られていたのであった。