しかし、それはあくまでも視界が利いた中での操船が条件であって、現在のアイルランド号のように、左舷やや後方からセントローレンス川の五ノットという強い流速を受けながら、盲目の中で相手の船の針路を横断する事は、万が一の危険がないわけではなかったのである。
霧の中の航行と、針路横切りに関する航法の原則が彼の脳裏を過ぎった。
「仮泊すべきである」「状況不明の時に回避行動として他船の針路を横切ってはならない」
多数の乗客の命を預かっている客船の船長としての責任が彼に決断させた。
今はアイルランド号をその場に停船させる事が最善の方法である。相手の船も、視界ゼロの中では当然停船するはずである。
しかし、仮に停船させたとしても、そこは海と違って川であるという事で、大きな危険が潜んでいる事も十分に承知の上で対処しなければならなかった。
停船した船は川の強い流れの影響を当然受ける。投錨し、機関を適宜あやつりながら、霧の中で船を一定の位置に保つ事は至難の業である。
ケンドールは今度は自らエンジンテレグラフに手を置き、手前一杯に廻した。
機関室に対して「後進全速」を指令した。
高速で航行中の大型の船を急に停船させる事は出来ない。そのためには「後進全速」にしてスクリューを逆回転させ、ブレーキとしなければならないのである。
それでも完全に停船するまでにはかなりの距離を走るのであり、今のアイルランド号は正にその状態にあった。
ケンドールは、まだ惰力で進むアイルランド号の停船位置が、相手の船の針路上でない事を祈った。また当然のことながら、相手の船も停船してくれる事を祈った。