当然、相手の船の灯火も見え隠れし始めた。
気がつくと、今まで見えていた右岸の丘陵も水平線も、いつの間にか視界から消え去っていた。
それは反航して来る船を確認してから五分も経たない、わずかな時間の出来事であった。
さらに二分ほど経過すると、総てのものが視界から消え去ってしまった。
この地域特有の霧が発生したのである。この時期のセントローレンス川の河口付近ではしばしば夜半に見られる、突然の霧の発生である。
しかもその霧は夜目にもハッキリと、白いヴェールがまるで水面を這うように、アイルランド号に急速に迫って来るのであった。
押し寄せる霧は、一〜二分後には完全にアイルランド号を包み込んでしまった。
既にブリッジからは船首すらはっきりと確認出来ない状態になっていた。
船乗りたちは、海霧がどれほど恐ろしいものであるかを十分に承知していた。
レーダーの発達した現在でも、海霧の中での船舶の衝突事故は枚挙にいとまがないほどで、海霧は常に海難事故原因の上位にある。
ケンドールはこれまでにも度々、セントローレンス川や湾で霧に包み込まれた経験はあったが、その場合には規則通り船を停船させ、投錨して船を固定し、霧の晴れるまで仮泊する事を常としていた。
しかし、今までの経験の中には、今回のように自分の船に反航して来る船を確認しながら航行している時に、霧によって視界が遮られたという事は一度もなかった。
彼はためらった。このままアイルランド号を進めれば、盲目の中ではあるが、反航して来る船の針路を横切り、安全な水域に出る事は可能であろう。