しかし、夜も十二時を廻った頃には総ての乗客達は自室へもどり、いつの間にか寝入ってしまっていたのであった。
アイルランド号は川面を滑るように静かに進んでいた。
既に川幅は四十キロメートルにも達し、何の障害物もなく、セントローレンス川は海と見間違うほどの景観になっていた。
日付は五月二十九日に変わった。
午前一時三十分を少し廻った頃、アイルランド号はパイロットステーションのある、川の右岸のファザーポイントに到着し、沖合で一時停船してパイロットを下ろした。
この後は、アイルランド号の指揮は総てケンドールに託されるのである。
アイルランド号は再び動き始めた。
川を下る船は、岸からおよそ四カイリ沖を航行することが義務づけられており、アイルランド号は定められた航路に向って徐々に速力を上げながら岸から離れて行った。
この時ケンドールはまだブリッジに残っていた。彼はアイルランド号を所定の航路に進めた後、あとの操船を当直の一等航海士にまかせ、自室に戻るつもりであった。
この時、前方の暗い視界を凝視していたケンドールと一等航海士は、ほとんど同時に、アイルランド号の針路のやや右舷前方に、川を遡上して来る一隻の船の灯火を発見した。
白色のマスト灯が見える。かなり低く見えるが舷灯を確認することが出来ない。
暗い中でもあり、二人はアイルランド号に向って来る船の針路をつかみ切れずにいた。
ただ、その船は、遡上する船としては通常よりかなり岸に近い側を航行しているように見えたのである。
空は快晴で半月が上空に輝いており、月の光によって、夜目にも視界は利き、右岸になだらかに続く丘の稜線が黒々とハッキリと確認出来るほどであった。