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彼は今やカナディアン・パシフィック社の船長として、同社最大の客船エンプレス・オブ・アイルランド号の船長という、最高の地位にまで昇りつめていた。

しかし、総てに満たされたヘンリー・ケンドールには、ただ一つ、常に彼の脳裡から消え去ることのない、忌わしい思い出があった。

それは、およそ四年ほど前の一九一〇年の一月に、ロンドン市中で起きた特異な殺人事件に関るものであった。

その事件とは、当時ロンドンに住んでいた医師の、ホーリー・ハーヴェー・クリッペンの妻が、自宅の地下室でバラバラ死体で発見されるという、猟奇的な事件に端を発するものである。

犯行は夫のホーリーと、彼の秘書であり、かつ愛人でもあるエセル・ニーヴェの共謀であることが、ロンドン警視庁の捜査によってほぼ判明していたが、犯人と共犯者の二人は事件直後からロンドン市中から消え去り、その行方は杳としてわからなかった。

この事件は、この時から二十二年前に、ロンドン市民を恐怖の底に落し込んだ有名な「切り裂きジャック」事件以来の猟奇事件として、ロンドンはおろか、イギリス中の人々が事件の成り行きに関心を寄せていたのであった。

この頃のケンドールは、まだカナディアン・パシフィック社の、カナダ航路用の目立たない中型客船モントローズ号の船長であった。

七月に入る頃から、犯人のクリッペンと共犯者のニーヴェが、ベルギー国内に潜伏しているらしいという噂が、どこからともなく流れて来たのである。

一九一〇年七月二十日、モントローズ号はロンドンを出港後、ベルギーのアントワープに寄港していた。

 

 

 

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