エンプレス・オブ・アイルランド号は、一九〇五年にイギリスのグラスゴーの名門、フェアフィールド造船所で進水した。
総トン数一万四千百四十一トン、四段膨張レシプロ機関によって、最大速力十八ノットを出すことが出来た。
乗客は一等船客三百十名、二等船客三百五十名、三等船客八百名の合計千四百六十名が定員であったが、この時代を反映して、新天地カナダヘの移民輸送に力が注がれていたために、三等船客の収容力が船の規模に比べて大きいのが特徴であった。
三層の旅客用甲板と細くて長い二本の煙突という外観は、当時の典型的な大西洋航路用客船のスタイルで、上甲板を境に、三層の上半分の甲板部分は白に、下半分の船体は黒に塗り分けられ、煙突はカナディアン・パシフィック社のシンボルカラーである黄金色に塗られていた。
アイルランド号は一九〇六年六月の処女航海以来、リヴァプールとケベックの間を既に百回近くも航海し、カナダ航路ではなじみの客船の一隻であった。
一九一四年五月二十八日、午後四時三十分、エンプレス・オブ・アイルランド号はケベックの埠頭をリヴァプールヘ向けて出港した。
それは過去に何十回となく繰り返されて来たいつもと変わらない光景であった。
しかし、アイルランド号はこの時を最後に、ケベックの埠頭に姿を見せる事は二度となかったのである。
アイルランド号がケベックの港を出発した時、合計千五十七名の乗客が乗り合わせていた。
内訳は、一等船客八十七名、二等船客二百五十三名、三等船客七百十七名で、それに乗組員四百二十名を加え、この時のアイルランド号の乗船者の合計は千四百七十七名であった。