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「あなたのお国は阿蘭陀ではないのですか?」

とたんに隣のラスが小声で注意してきた。

「おい、余分な事を言うなよ」

ラスが心配している事はわかっている。

オランダは百五十年以上もこの国との交易を独占していた。国策会社の東インド商会はジャワのバタビアにも拠点を置き、長崎の出島にある日本支社宛てに、毎年一隻の大型船を派遣していた。それまで順調だったオランダの商売に狂いが生じたのはフランスのせいだった。革命で王様の首を飛ばしたフランス共和政府は、ヨーロッパ中の王国と喧嘩を始めた。その煽りを食ったオランダはフランスに侵され、バタビア共和国と名が変えられていた。以来イギリスと組んでフランスと戦う者、フランスに迎合してイギリスに抵抗する者ありでオランダは混乱の極致にあった。貿易船は戦争にかりだされる。アジアに売り込む商品は品薄になる。こうなると東インド商会も商売どころではない。会社は解散の瀬戸際にあった。実際、いまどき以前のオランダの旗がひるがえっていたのは世界中でも長崎だけだろう。

母国や本社からの訓令や給与が滞り、出先のオランダ人たちは、自給自足して商館の存続を図らねばならなかった。母国の船の来航が期待できない彼らは、中立国籍船のチャーターに目を向ける。俺のイライザ号がバタビアで傭船契約にありつけたのは、そういう背景があったからだった。出島オランダ商館は日本人に祖国の壊滅的危機をひた隠しにしていた。ラスの心配は俺が日本人にオランダの危機的状況をバラしてしまうことだった。

 

 

 

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