日本財団 図書館


平和国家を目指すということ以外は、国際政治の難しい部分についてあまり物を言わないで経済中心でやってきた。ここに問題があったんじゃないかという気がします。

ついでに言いますと、平和国家とある意味でペアになっているのは国際協調という話です。何が言いたいかというと、国際協調というのは手段であります。あるいは、手段であるべきものであります。国際協調自体が目的だということは、本当はないと私は思っています。何か自分の国が実現していきたいものがあって、そのためになるべく協調的にやっていくべきだというなら話はわかりますが、協調すること自体が自己目的化するというのは、何か不健全ではないか。ところが、日本の場合は国際協調の自己目的化が非常に顕著で、それは恐らくは手段のレベルでの「平和国家」を目指す。それをあまりにも言い過ぎたことと関係があるはずです。

私が言いたいのは、国際協調が大事であったとしても、本当は日本にとって何か譲れない一線とでも言うべきものがあって、そこを越えたらやっぱり協調はできないということでなければ、本来おかしい。そういう意識がなければいけない。ところが、どうも日本にはあまりそれがない。だから、北朝鮮に対してさえ、何かあると、ともかく協調せよという議論が出てきたりする。そういうことになっているのじゃないかと思うわけです。

こうして見ると、戦後日本ではわりと早い時期に自立心とか目的意識が消滅したのかという話で、私も最初そう思い込んでいたんですが、どうもそうではないんです。最近、必要があって、30年ぐらい前の日本の安全保障とか外交に関する議論を少し読むことがありました。その結果初めて知ったのですが、どうも60年代後半から70年代頭にかけては、アメリカと協調することが大事だと言っているような、いわゆる現実派の人たちが、そうは言ってもしかし、どうやって日本の自立性を残していくか、確保していくかが大事だというようなことをしきりに論じ、悩んで、考えています。例えばNPTが日本の外交安全保障戦略に関して非常に大きい主題だったのは、そのころです。核防条約と、当時は言いました。核防条約に入って、なおかつ、自立性を持てるかどうかということが非常に気にされていたんです。

ですから、30年ぐらい前はアメリカ一辺倒とか、アメリカの決めたことにただただ従っていればいいという考え方は、現実派の論客、あるいは政治家、あるいは外交官の間にもなかった。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION