普通の形ではナショナリズムが出せない国であり続けた。アイ・ラブ・マイ・カントリーと言うと右翼だと言われるという風潮が長く続いて、日の丸・君が代は、国旗と国歌かというと、どうもそうでもないんじゃないかということが何十年も続いた。
ちなみに、今回のあの法案(国旗・国歌法案)の提出のされ方も私はどうも釈然としなくて、政府の説明の仕方も、もうちょっと正々堂々とやればいいのにと思っていて面白くないんです。しかし、ああいうものが国旗でも国歌でもなかったというあたりが、何か今話していることの遠因の一つのような気がします。
それから、軍事について考えることさえいけなくて、ナショナリズムと言うのが間違ったことだという発想と関連して、戦後の日本人はパワー・ポリティクスからともかく逃げて、逃げて、逃げまくろうということでやってきた。これも日本人の自立心や目的意識を乏しくさせた原因の一つであると思います。国際的パワー・ポリティクスから逃避して日本が何を言っていたかと言いますと、どうも平和国家を目指すと言ってきたんです。これが私は非常にまずいんじゃないかと最近、思っています。
という言い方をすると誤解を招きかねないので、私は決して日本が平和国家でない国家になれと言っているのではありません。防衛大学何とかという肩書きがある者としては、重々皆様にご注意願いたいところです。私が言いたいのは次のようなことです。平和というのは、それ自体としては無内容です。どういう平和か。いかなる理念を大切にしたいのか。あるいは、いかなる現状を固定する平和かというようなことを言わないと、本当は平和はあまり内容はない言葉です。ところが日本は、平和国家とだけ言って、そこで考えるのはやめてしまった。
さらに言うと、平和国家というのには、手段のレベルで「平和的」手段を取らない国という意味と、目的のレベルで世界とか地域とかそういうところで平和を実現することに何か努力する国と、二つ意味があり得ると思います。けれども、日本においては平和国家を目指すと言いながら、どうもその意味は往々にして手段における平和国家といいますか、要するに軍事的な手段を取らない国というところに矮小化されていたように思います。
その平和国家という、実はあまり内容のない言葉を目標として掲げたようなことになって、そこで全て話をやめてしまうものですから、どうも私は日本外交から目的意識が消えていったのではないか。