最初は、芸術家サロンみたいなことで、萩原碌山(守衛)、中村彝、国木田独歩なんかも来ていたみたいですが、ああいう芸術家とだけしかつき合っていなかったのが、次第に英語も話せるようになったらしく、かなり自由に会話ができた。息子さんが書いた本がありますので、大体わかります。
森 黒光の伝記は幾つもでているのですが、碌山や中村彝との関係ばかり書いてあって、思想的にどういう人だったのかが、ほとんど書かれていない。頭山満にビハリ・ボースとエロシェンコとかもそうです。
山室 義によって、ということらしい。「窮鳥懐に入れば」ということをよく言われたそうです。
岡本 翻訳の話ですが、翻訳の事務局をつくるとか、政策的な関与はあったのですか。
山室 当初は、かなり留学生にそれを勧めたし、それを義務づけていたらしいが、それはない。
中国の場合は、各省ごとの学生会ができるのです、ネーションワイドというよりは省単位です。省単位の雑誌がかなり出る。省ごとに競い出す。四川省、雲南省とか、それぞれの省が雑誌を出して、しかも出版社をつくって、出版点数を争う形になっています、中国全体よりは省の発展が、彼らにとって一番重要な問題だったと思う。
岡本 日本と同じぐらい、トルコがすごく早い。オスマン帝国の末期に、翻訳能力を強化したんで、それで入ってきた。
山室 翻訳学堂をつくれという話は一貫して、中国本土にはある。中国の一番最初の翻訳機関は、1862年にできた北京の同文館です。同文館という意味は、他の言葉を同じ文章に直すという意味です。朝鮮も、それにならって同文館をつくる。しかし、朝鮮の場合は30年ぐらい遅れます。中国の場合は非常に早い。
留学生についても、最初の留学生は、日本よりもかなり早い。ところが、その後、全然システマティックにいかなくなる。中国の場合、一番重要だったのは、早い段階で留学生を送ったのですが、漢文が読めない、書けない学生が出てきてしまう。結局、官僚の文書も何も書けないからだめだとなって、70年代に中止されてしまって、1890年代まで欧米向けの留学生は極めて限定されてしまう。このギャップが大きいと思います。
日本は、1862年に、オランダのライデン大学に行きますが、そこからシステマティックにやります。明治6年に、それまでのランダムな留学を全部整理して、官費留学生にし、全部セレクトする。留学生のシステムとしても、日本のほうがお金のわりには効率がよかった気がします。
川本 地味な私小説作家で、結城信一という人がいます。全集が3冊完結した。小説を読んでいたら、昭和18年ぐらいに、アジアから来る留学生たちに日本語を教える先生をしていた。昭和20年8月15日を迎えて、普通どおりに授業をしていて、戦争が終わった後、留学生たちを横浜の港に送っていくところで終わる。こういう背景があったのかと思いました。
山室 竹内好さんも、そういうことをやっていた。
青木 大東亜共栄圏の帝都も、帝都をつくろうとして結局できなかった。それから、都市のインフラが整備されてなかったという感じです。
確かに、帝都とは帝国の中心部で、イスタンブール、北京や長安にしても、大帝国の中心部であった。現在でも、ある程度は通じているのかもしれないが、これからも世界都市が必要なのかどうか。東京の将来を考えた場合も、世界都市的なものを具備して発展する方向が必要なのか。世界的に見て、地方分権の方向があり、世界都市をつくるよりは、特定の個性ある機能を備えた都市である学都、商都などがあったほうがいいのか。東京を、これからどうしていくか、どういうこれからの東京のイメージがあるのか、どういう都市として存在したらいいのか。
知的交流・活躍の場の提供
陣内 現在の時点、あるいは10年後、20年後の東京が、アジアの中で、どういう役割を果たしているのか。かつての留学生は日本に学びに来たとはいえ、逆に、刺激を与えていった、本当の交流を深めていって、その後、いろいろなことで影響を与えてくれた人たちです。そういうことと今を比較すると、全くアジアの中心に東京がまだなってない、そういう資格をもってないような気がする。日本側からアジアへのかかわりも、あの時代は、ものすごくあったわけです。