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山室 留学生はいました。ですから、後の交通大臣になりました章宗祥など、五四運動のときに批判された人たちは東大法科を卒業しています。

南方特別留学生の場合も、全部、拠点主義ですから、医学は熊本医専に行く。広島は教育です。南方の人は、広島で原爆に被災した人も出てくる。

 

青木 その後、中国で、日本に関する研究書とか、また、日本の近代化についての本は出ているのですか。

 

山室 戴季陶の『日本論』という有名な本が、1927、8年に出ますが、それに前後して、おそらく今でも及ばないほどの本が、量的にも質的にも出ていたのではないかと思います。

 

翻訳のスピードが早かった日本

 

青木 インドで、トルコのケマル・アタチュルクの改革が成功したので、それについて3,000冊ぐらいの研究書が出たとインドのナンディ教授に聞きました。当時のアジア諸国は、いろいろなものを互いに見ていて、ここがうまくいったからそれに学ぼうとか、情報に敏感ですね。中国の東学も、そういう意味があったわけですね。

 

山室 日本も山田寅次郎という人が、1890年前後には、イスタンブールに行って住んでいます。そして、トルコの改革などを興味をもって見ている。そうした相互の関心もあって、エルトル号という戦艦が日本にやって来るわけです。

 

青木 ヨーロッパが手本としてあるが、結構、アジアの国との間で情報交換があったんですね。

日本へ来た中国人の留学生については、比較的いろいろな本がありますね。

 

山室 留学生そのものについての分析などのものは書きやすい。問題は、実際に国家形成や学問形成などに、どの程度のものが入っていったとかの分析が難しい。

 

青木 ハノイのトンキン義塾はどうなったのですか。

 

山室 すぐにつぶれてしまうんです。

 

岡本 ASEANの元日本留学生評議会はまだあるのですか。

 

山室 まだあるのではないんですか。レオカディオ・デアシスさんがそのときの最初の評議会の世話役みたいなことをやっていました。

 

岡本 日本人のメンバーはいるのですか?

 

山室 日本人はいません。ASEANの、向こう側の留学生です。

 

陣内 欧米の文化文明を、アジアの国々で、どのぐらいのスピードで、どんなふうに取り入れたか。例えば、日本は確かに翻訳が早い。明治時代には、大抵の分野で翻訳している。1920年代に、日本で欧米の建築や都市計画のほとんどの動きをキャッチし、数年遅れぐらいで実現してしまうような、すごい追いつき方だと思う。中国をはじめ、東南アジアも、欧米の例えば、哲学・思想・文学・芸術などの紹介・翻訳は、日本と比べて、一般的にどのぐらいのタイムラグなのでしょう。彼らにとっては、日本語さえ勉強すれば、あらゆることに精通できる構図になっていたのですか。

 

山室 これも和文漢読法という特殊な方法があって、日本語の文法を知らなくても、全部翻訳できるシステマティックな本、翻訳マニュアルができている。それに従って全部訳していきます。来た人は必ず1冊ぐらいは翻訳する感じのペースです。同じ本で4、5冊、翻訳が出たのがあります。

日本で発行されると、朝鮮の仁川や釜山、中国の上海とか、同時に発行される。出版社をやっている人は留学生で、留学生とつながりがある。商務部印書館という中国の有名な出版社がありますが、これも当初は日本との提携でやっている。アジアで同時発売みたいに、ぱっと出てくる。発行図書の宣伝を見ていると、そういうことが書いてある。

下田歌子は、そういうことをしていた。実践学校で、毎年、留学生を受け入れましたし、それから、作新社をつくって、上海に翻訳出版社をつくる。そこで翻訳を出版している。

 

森 主題とかけ離れるのですが、相馬黒光という人は、思想的にはどうだったのですか。

 

山室 基本的にはクリスチャンとして、かなり早い段階から、東北のほうで教育を受けています。島崎藤村とかの影響もあるのでしょう。それとともに彼女自身も、こういうアジア人とのつき合いの中で変わっていたのだろうと思う。

 

 

 

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