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山室 日本に留学する意味は、一種の便宜性でもある。日本の中の日本を学ぶんじゃなくて、日本の中のヨーロッパを学びに来る。有名な張之洞という湖広総督が書いた『勧学編』が、100万部以上売れた。これが留学生を一番刺激した本なのですが、その中で日本へ留学を勧める理由が幾つか挙げられていて、最初に、ほんとうに学問をしようと思ったら、欧米に行きなさいと書いてある。日本には、日本の近代化あるいは近代国民国家形成のプロセスの模範として行くが、学問をしようと思ったら、欧米に行かなきゃいけないという認識が中国側にもあった。

 

陣内 欧米のものをダイレクトに学ぶことは、ポジションとしてあるが、日本の場合は日本的に、いろいろなバックグラウンド、国民性、経済状況とかを翻案して、日本的システムをつくった。それ自体が、アジアの人たちにとって、1つのモデルになるという見方で、積極的に日本へということもあったわけですか。

 

山室 同じアジアで、同種(同じ人種)、同文(漢字)、同教(儒教と仏教)であるというキャッチフレーズができて、日本に学んでいれば、直接学ぶよりリスクが少ないことは、大きな要因としてあげられました。ある種、要らないところは全部削っているし、必要なところだけ取っている。しかも、アジアの持っている重要なものだけが残っているのが、留学のためのキャッチフレーズだった。

 

森 そのころの留学生は、大家さんから下宿に貸さないといったハラスメントを受けることはなかったのですか。

 

山室 非常に親切にされたというのが大半ですが、たんを吐くとか、油料理をするとかが嫌われる大きな要因です。アメリカでも同じことはあります。あまり清潔でないという言い方をかなりします。日本人は、風呂に何回も入るが、彼らはなかなか入らない。彼らはその当時、弁髪をしていますが、全然洗わない。だから、ある種のにおいがすることがあります。一方では、イスラム人が来ると、日本のほうが汚いという。

 

川本 お金持ちの子弟だったのですか。

 

山室 多くはそうです。一家留学みたいなものもあります。挙村留学みたいな形で来る人もたくさんいました。官費留学は、ほとんどない。最初の段階では省から出たとか、政府から出たのがありましたが、大体は自費留学。逆に言うと、遠くまで行けない。近くて安い、何かあったらすぐに帰れるという大きな要因があります。地勢的な要因は大きい。

 

陣内 彼らにとって、最初から東京なんですか。長崎、神戸とか、別の身近に感じる都市はあったのですか。

 

山室 初期の段階は、長崎もあります。長崎には、江戸時代からの長崎唐通事の伝統があって、福建省とのつながりがありました。長崎ちゃんぽんは、留学生のためにつくられた料理です。栄養が偏らないように、全部をごちゃ混ぜにしてつくったのが、長崎ちゃんぽんの始まりです。それから神戸には華僑がおりますから行く。

後に、横浜と神戸に大同学校という華僑のための学校ができる。その校長が梁啓超です。一時、そこでセツルメントをやった上で、東京に入って来るというルートもあります。嘉納治五郎などは、中国側の要請もあって、日本語教育を全部、最初から引き受けています。

同時に、中国側にも、日本からお雇い外国人教師が行って、東文学堂をたくさんつくる。東文学堂は、日本語を教える学校です。日本語学校も、かなりたくさんできます。1880年代前後と同じような状況が、中国にも起こった。例えば、王国維という有名な学者は、東文学堂で学んだ人です。そこで学んで、京都に留学したわけですが、そういうルートはかなりできていた。そういう人たちの中から、藤田豊八という東洋史の研究者が出てくるわけで、日中双方に、かなり大きな意味合いを持ったと思うのです。

 

青木 早稲田大学、法政大学とかが引き受けたわけですが、当時の帝大は、外国人を引き受けなかった?

 

山室 いや、入っています。

 

青木 しかし、そういう組織は、あまり帝大の中にはできなかった。留学は許していた?

 

 

 

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