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山室 最初はNGOから始まった。今はスポンサーがついています。どうすれば自分の利益が保護されるかみたいなことを放送している。

 

青木 そのステーションは、どこにあるんですか。

 

山室 神戸にあります。

 

青木 先生のお宅でも聞けますか。

 

山室 聞けます。ローカル・ガバメント情報は兵庫、奈良、大阪、滋賀まで全部入ります。

 

川本 東京でも上野でイラン人向け、ブラジルから来ている日系3世の人たち向けの放送局があります。戦前、アジア各国から、こんなに日本に来ていたことを知り、目からウロコが落ちました。こういう人たちは、大東亜戦争が始まったときには、どうなっていったのか。それと、当時の日本に対して、どういう批判をしたのか、あるいは同調をしたのか。どういう人が多かったのでしょうか。

 

日中戦争中にも留学生はいた

 

山室 戦争が起こったから、日本に対する批判が強まったとは言えないのです。中国の場合、1931年の満州事変後に、留学生が一たん減ったのですが、その後は増える。これはおもしろい現象です。いろいろ理由があるのですが、為替の問題がある。為替が安くなったので、日本に留学しやすくなったことがあります。

それとともに、日本がそういうふうになるのであれば、より強力に日本を研究しなきゃならないという要求が出て、1930年代には、中国で、おそらく現在でも及ばないほどの日本研究の本とか雑誌がいっぱい出る。そのための留学生を送ってくる、あるいは留学生がそういう役割を果たすことになってきます。

留学生の問題には、ヘゲモニーの問題があります。アメリカとの間に、中国の留学生をめぐって、非常にヘゲモニー競争がある。義和団賠償金をアメリカはルーズベルト大統領が全部返還して、アメリカへ留学生をどんどん入れる。宋美齢をはじめ宋兄弟がみんな行きますが、女性教育について、日本はできなかったが、アメリカではできるという条件を整えた。例えば、エール大学に行けば、留学費用を全部見てやるとか、そういう形で毎年800人前後を呼ぶ。1910年段階までは日本が一番強かった。

 

川本 日中戦争が始まった後は、どうなるんですか。

 

山室 始まった後も、留学生そのものは、監視はしますが、強制帰国はさせていない。もちろん帰る人もたくさんいたが、日中戦争、蘆溝橋事件の後に満州国などからの留学生は増えた。

 

川本 つまり日中戦争は、日本という国と中国という国が全面戦争に入ったという戦争ではなかったということですか。日本人女性が中国人と結婚して、向こうに住みついた人が描いている講談社から出版された『異郷』というノンフィクションを読んだのです。その人は日中戦争が始まってから日本に来た留学生と結婚する。昭和17年か、18年に中国に行って、共産党に入っていくストーリーです。戦争が始まっているのに、留学生が来て、結婚して、中国に行くとは、どういうことなのだろうと、よく理解できないんです。

 

山室 その当時、中国は主権国家というか、1つの主権の下に統合されていたかどうかが問題となります。一応、国共合作は成ったんですが、どこを指して中国の主権の主体とみなすかは、よくわからないんです。後には、南京政府と重慶政府と2つの政府ができますし、華北政権も別にあります。幾つも政権があるものですから、ストレートに、どことどこが交戦状態に入っているかは言えないわけです。ですから、日中戦争の時期でも華僑や留学生などの交流はありました。

 

川本 普通ですと、国と国が戦争状態になったら、アメリカにいた日本人が収容所に入れられるみたいになります。日中戦争の場合、日本に、たくさんの中国人がいたことがよく理解できない。

 

山室 公安や警察の監視はついています。

 

青木 上海なんかでは、当時は国共合作といっても、中国人の間ではどっちにつくかがあり、立場としては、日本につく人もいるわけです。

日本の工作にも、日本に好意的な人たちも出てきたから、その辺は非常に複雑でしょう。例えば、チェン・カイコーの映画『覇王別姫』で、北京に日本軍が入って来るでしょう。日本人将軍が京劇に対して理解があったことを示す場面がありました。文化面での日本に対する評価も逆にあったらしい。

19世紀の終わりから、今世紀の初めにかけて中国や他のアジアの国からかなり日本へ留学生が来たが、それをつなぎとめるのが難しい。

 

 

 

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