このような歴史的な問題も踏まえて、幾つかの問題点だけを挙げておきます。
III. 世界都市の条件
世界都市の条件とは、要するに器であって、そこに何かがあることも当然重要なのですが、交流の場、活躍の場を提供できることです。亜州和親会、国際学友会にしろ、必ずしも日本人がそこにかかわっていたわけではありませんが、場を提供することによって、その後、日本とのつながりができてくるという大きな役割をになっている。もちろん、日本がパッシングされる可能性を当然持っていても、その程度の許容性を持たない限りは、世界都市になれないのではないか。
それから、つくることはできず、出現を待つしかないが、そういうものができていくために不可欠なディストリビューター、あるいはジョイントを行う人間の存在が必要です。ベトナムや朝鮮から日本に留学生がやって来た大きな要因は、日本に亡命者としてやってきた梁啓超という人がいたからです。彼が横浜で発行していた雑誌が、アジア世界に回って、非常に大きな影響を与えた。彼を慕って日本へ行こうという人も出てくる。ファン=ボイ・チャウの場合も、全然面識はなかったが、名前だけ知っていて、横浜に直接会いに行く形のつながり方をしていた。
事例が違うかもしれませんが、私は、この12月の前半、台湾を歩いていて、よく名前を聞いたのは、リチャード・クー(野村総合研究所)という人です。彼はご存じのように、辜振甫という、両岸の交流協会会長をされている辜財閥の弟さんの息子さんだそうです。そういう人がいることだけで、日本とのつながりを、彼らは強く訴える。しかも、彼は成功者です。日本で成功している人がいることで、自分とのつながりを考えることがあります。邱永漢さんの場合も、何処に行っても、そういう話を聞きますし、そういう形でのつながりが必要だろうという気がします。
他の国の人を登用し、活躍できる場があれば、ある種、世界都市としての要件を持ち得るのではないかという気がします。
混沌と不完全さの効用
「混沌と不完全さの効用」に移ります。ある種のエスニックコミュニティーの存在が、世界都市には不可欠に随伴してくる問題だろうという気がします。ニューヨークに行けば、エンパイヤステートビルの下に、ハングルだけの街が存在する。それが快適であるかどうかは別にして、そういう街がある情景を想定しないと、世界都市は存在しない。長安等でも、やはり西域市と言われた西域の人だけが住んでいる場所があった。オスマン帝国のミレット、宗教共同体と言われるのも、そういうものでして、自分たちの自治を許すような地域を持っていた。世界都市性を持っていた。現在でも、北京に行けば、新彊ウイグル自治区から来た人が住んでいる新彊村(あくまで通称名でもあるかもしれません)みたいなものが存在する。
不完全さという意味で言うと、かつて2万人近い留学生が存在した意味は、基本的に日本語を必要としなかったからです。変則教育等によって日本語を必要としなかった。だからこそ、日本で学ぶ。あるいは逆に言うと、日本文化の理解につながっていないのかもしれませんが、日本を媒介としてヨーロッパを知る、あるいは日本を媒介としてアジア各国とつながるという点では、非常に大きな効用があった気がします。この辺はもちろん評価の問題ですから、それがいいのかどうかは、私自身もはっきりわかりませんが、そういう問題があると思います。
インターフェイス都市の意義
「インターネットの世紀におけるインターフェース都市の意義」の話です。私自身の経験からも幾つかの見聞記や旅行記等を見ると、戦前は非常に異国人歓待の風があって、みんな、人なつこいという。隣近所の人は、自分のところに呼んでごちそうしてくれる。貧しい中でも、そういうことをしてくれた。これは柳田国男が言うように、日本人には、もともと、異国人を歓待する風習があった。それが戦後なくなったのかどうか不明ですが、そのために、カフェとか、そういう公共空間が発達すればいいんだということにもなるかと思います。そういう意味で、インターネットで世界と、時間的、空間的につながるからこそ、逆にインターフェースである側面も重要になってくる気がします。