残念ながら、この亜州和親会は、参加していた人たちの多くが、パリ等にまた亡命していきましたので、1年程度でつぶれてしまいます。
社会主義講習会も、このときに行われておりまして、中国の社会主義は、この日本から中国に入っていく大きなルートになっています。
同じように、アジア人たちの一種の結集の場として、ビハリ・ボースが、新宿につくった亜細亜郷もあります。
実態は、よくわかっていませんが、とにかく、そういうものがあった。
これが1920年代に一たん終息し、新しい形で東京にあらわれてくるのは、大東亜共栄圏の帝都としてです。大東亜共栄圏当時の東京がどうであったのかは、当時の留学生たちや、修学旅行生たちの作文とか、日記などで、かなりの程度わかりますが、幾つかの例を挙げておきます。
台湾からの修学旅行生が来ていますが、この修学旅行生とは高砂族と言われた人たちでした。その人たちが見た東京とは、日本は文明の都だと教えられてきてみたら、乞食があっちこっちにいる。「人が馬の街」と書いた作文がありますが、つまり人力車のことです。とにかく人が馬の代わりをしている。乞食を見てかわいそうだったから、お金をあげたとか、いろいろ書いてあります。決して文明の都と見えなかった。言ってみれば、植民地を持った帝国として貧困な帝都として見えたようです。
南方特別留学生、いわゆる南特と言われる人たちがいて、一説に1943年に116名、1944年に87名、計203名が送られてきた。それまで、イギリスや、オランダやアメリカの統治下だったビルマ、タイ、インドネシア、フィリピン等から日本へやって来たわけです。その中で一番有名なのは、レオカディオ・デアシスという人の「From Battan to Tokyo」という日記です。彼はバターンの戦いで捕虜になった人ですが、後に選ばれ、東京に来て、警察官の訓練をした人です。彼の日記を見ていますと、フィリピンの場合は、南方特別留学生の場合でも特別であった。ほかの人もみんな、口々に証言しているんですが、既に日本よりも自分たちのほうがデモクラシーを知っていて非常にインディペンデントで、他の地域の南方留学生ともあまり交わらなかったとも書いています。それはともかく地下鉄に驚いたとか、宝塚とか日劇のレビュー等をよく見ている。1943年から1945年という戦時下の非常時期ですが、ラ・クンパルシータのタンゴのレコードを聞いたりすることができた。一部では、西洋文明があったと描かれています。彼らはカトリックでしたから、アジアカトリックの婦人会の人などと交わりがあり、日本にいて、西洋の文明を味わえる状況にあったと書いています。
彼らの多くは、いろいろなカルチャーショックを受けたが、混浴の問題がそれです。イスラムの人たちにとってはマンティ、水浴です。トイレの問題もありました。水で洗うのと紙を使うのとでは全く違う文明ですから。とにかくムスリムの人たちは、トイレで水を使って飛ばしてしまうことがある。それは文明作法の違いですから、致し方ありません。彼らが非常に驚いたのは、帝都の中でも、恵比寿駅周辺で、まだ金肥がまかれていたことです。自分たちはそういうことをしないので、遅れた文明ではないかという印象と、衛生的でないという印象を持ったようです。
この南特の問題も含めて、これらを引き受けていたのは、文部省がつくった文化事業部の外郭団体である国際学友会です。寮などは、柏木、碑文谷、大久保などに幾つかあり、ここは現在の学友会になっています。民族・出身地別居住の原則をとっていたようです。ただ、運動会などを通じて、かなり学生の交流も進められていたと言われています。
そういう交流の結果、戦後にASEAN元日本留学生評議会がつくられます。南特を中心として国際学友会で知り合った人たちが、ASEANができたときに、地域内統合のある種のきずなになっていったということです。インドネシアのダルマ・プルサダ大学は、戦前の留学生、1960年代の賠償留学生が中心となって、日本を学ぶための同窓会がつくった大学です。留学生を中心として、その後のアジアのつながりもできていったと言えるかと思います。