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これは日本での発行です。民報の発行元は、宮崎滔天の自宅です。そのように、日本人とのかかわりの中で、とりわけ東京を中心に、両派の論争が繰り広げられることがありました。

ベトナムの場合には、ファン=ボイ・チャウのもとで、クォンデ侯という人が日本にやってきて、ベトナム公憲会をつくり、革命運動、つまりフランスからの独立運動を行うことになります。

インドからは、ラス・ビハリ・ボース、グプタ等がきました。1915年に国外退去命令が出されたとき、頭山満や内田良平らの黒龍会系統の人たちがかくまう。その後、新宿中村屋に移って、相馬愛蔵と黒光のもとで隠れていた。この2人の娘さんとラス・ビハリ・ボースが結婚した。新宿中村屋は黒龍会とのつながりもありますが、中国の革命家も出入りをする。萩原守衛や中村彝といった芸術家も、出入りをする。盲目の詩人で、ロシアの亡命詩人だったエロシェンコも出入りをする。サロンが成立することで、そこにさまざまなヨーロッパとの、あるいはアジア内での交流も始まりました。カレーライスとか、中華まんじゅう、月餅という現在の中村屋のトレードマークになる中国菓子も、そういう人たちがいたことで生まれてきた。

ビルマの例ですが、ウー・オッタマという人がやってきます。京都が中心ですが、時折、東京にもやってきて、大谷光瑞の庇護のもとで、ビルマ仏教青年団をつくる運動を行うことになります。

フィリピンの場合、スペインからアメリカへ植民地統治が変わっていく段階で、日本にはホセ・リサールとか、マリアノ・ポンセなどが亡命してきました。そのとき、横浜港から乗った船に末広鉄腸が乗り合わせたことから、『南洋の大波瀾』という政治小説がかれた。内外出版協会という出版社の山県梯三郎のもとで、東洋青年会が開かれて、フィリピンだけでなく、ビルマ、インド等のアジア各地の人が集まって議論をしていたと言われています。そういう集まりの中に、山田美妙が入って、マリアノ・ポンセから聞いた話で『あぎなるど』という小説を書く。

ムスリムも、日露戦争以後に、日本にやって来る。それからロシア革命で、タタール系の人が、追われてやってきます。3つぐらいの経路があるのですが、1つは、樺太に逃げて東北から東京に逃げてくるケース。前にプロレスラーのユセフ・トルコという人がいましたが、彼のお父さんが、そういうルートでやってきた人です。それから、ハルピン、京城を通って日本へ入って来る人たちがいます。それ以外に、神戸の印僑(インドの華僑)の人たちがたくさんいますが、彼らはストレートに、インドや東南アジアからやって来る。当時は、まだパキスタンと分かれていませんでしたが、インド系のムスリムは、神戸にやって来て移り住んでいる。神戸、名古屋、東京にモスクができた。

その中で一番有名なのは、タタール人のムスリムだったアブデュルレシト・イブラヒムです。彼が一躍有名になったのは、代々木のモスクをつくったときの大導師をやったからでもありますが、若い日の井筒俊彦さんに、彼がいろいろ教えたことで知られています。上野広小路や不忍池の端に住んでいて、おそらく陸軍からお金が入っていたんですが、汎イスラムの運動を展開するためにやって来る人がいた。

汎イスラム運動は、1907年ごろには、エジプトあたりからやって来た人もいると言われています。1909年、エジプト人ムスリムがやってきて、早稲田大学の講堂で演説会をして、聴衆が2,000名に達したという記事も見たことがあります。

1910年に、トルコから留学生3名が派遣されてきた。亜細亜義会をつくって、日本語の語学研修を行う。これも汎イスラム運動のあらわれです。この亜細亜義会は、その後、大連から奉天へ移っていき、満州におけるイスラム国家の建設構想の運動の拠点になっていました。

 

留学生たちの深い交流

 

さて、留学生や亡命者たちが来たことで、一体どういうことが起こったのか。1907年に亜州和親会が結成されています。これは日本・朝鮮・中国、それからフィリピン等を含めて、先に書いた人たちが、ほとんど入っている、独立運動の団体です。これが青山のインディアンハウスで開かれます。インディアンハウスは、ミスター・Dというインド人が住んでいたところに、インド人が集まって住んでいたらしいので、インディアンハウスと言われたらしい。

 

 

 

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